前にある人のブログで読んだことが強く印象に残っている。
その人は或る美術館で作品についてのメモを取っていた。すると、係員がやってきて、
鉛筆を使うのは遠慮してほしいという。理由を訊くと、「芯がとんで、作品を傷めると困るから」ということらしい。
以前、友達と三鷹駅前の美術館に行ったときのこと。のどの調子が悪いからと、友達がバッグからのど飴を取り出して口に入れた。すぐさま女性の係員がとんできて、「のど飴は困ります」わたしが「何故ですか?」と訊くと「咳などをして飴が飛び出して作品を傷める可能性が・・・」
鉛筆の芯が折れて作品を傷つけたり、咳やくしゃみをしてのど飴が口から飛び出して、作品を損なう確率とは、どの程度のものだろうか?
けれどもわたしはこれらの二つの例があくまで特殊で例外的なものだとは思えない。
今更言うまでもなく、わたしたちは生身の人間である、くしゃみやせきに限らず、立ちくらみを起こして、思わず壁に寄りかかってしまうかもしれない。うっかり人にぶつかり、その人が押されたはずみで展示品にぶつかってしまうかもしれない・・・「作品を毀損しうるあらゆる可能性」を考慮し、排除していたら、当然展示会など開くことはできはしない。
わたしは極端なことを言っているのだろうか?「鉛筆の芯が飛んで作品を傷つける可能性」というのは極端ではないのだろうか?
◇
家の近くにある比較的緑の多い公園内の路が、いつも塵ひとつないほど掃き清められているということを以前書いた。
今日もその公園に行ってみた。散ったさくらの花びらをどうしているのか知りたいと思ったからだ。案の定、花壇のように囲われている場所以外の、人の歩く部分にこぼれたさくらの花びらを年配の男性たちがせっせと掃き集めてはゴミ袋に押し込んでいる。
仕事をしている男性に声をかけてみた。
「みなさんは、落ち葉やさくらの花びらをゴミだと思ってらっしゃるのですか?」
「ええ、ゴミですねえ・・・いや、子供さんたちやお年寄りがね、それを踏んで転んだりすると危ないでしょう。だから掃くのはみちのところだけでね。こういう花壇のようなところはそのままですよ」
わたしは「公共空間」について考える。
道路であれ、駅であれ、デパートであれ、図書館であれ、「私的空間」以外はすべてがパブリック・プレイス=共空間である。
たとえば公園という場所は一般的には休息のための空間とされている。
けれども、いうまでもなく、公園は自然の野山ではなく、自治体が作ったものであり、したがって自治体によって「管理される」。
ホッと息抜きをし、リラックスするための空間であると同時に、管理下に置かれた空間でもある。
そのため管理者である自治体が、花びらや落ち葉を踏んで転んでけがをする人が出たら困ると判断すれば、舞い散ったさくらの花は危険物として速やかに「処分」される。
バスの車内で執拗に流される「危険ですので走行中の座席の移動はお止めください」
或いは電車内で「危険防止のため急停車することがありますのでお気を付けください」
エスカレーターで、駅構内で。
公共空間とは恐怖の空間である。
◇
たとえば美術館などでは、どこまでが危険な領域で、どこからが安全であるというその一線は、どのような判断に基づいて為されているのだろうか?
言い換えれば、人はどこまで人を信じ、どこまで人を疑うのか、それが「安全」と「危険」の一線を画する基準になるだろう。いやいや、信じる信じないの問題ではないだろう。鉛筆の芯が折れて飛ぶのも、のど飴が咳と一緒に飛び出すのも、どちらも不可抗力だ。そして人間は「ハプニング」を予知することはできない。
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人ありて電車の中に唾を吐く
それにも
心いたましむとき (啄木)
電車の中はわたしの空間だろうか?あるいはみんなの空間だろうか?
たとえば電車の中で赤ん坊が泣き出したら、皆は迷惑だろうか?「ここはみんなの空間だから」うるさくする方が悪者だろうか?それとも、うるさがる方が悪いのだろうか?
或いは気分が悪くなって吐いてしまったら?それは明らかな迷惑行為だろうか?体調が悪いのに電車=公共の乗り物(そんなことを言えばタクシーだって公共の乗り物なのだが)に乗る方が思慮が足らないのだろうか・・・なにが適正で何が妥当なのだろう?そしてその基準はどこにあるのだろう?
公共空間即ち恐怖の空間であるとすれば、至る所に「監視カメラ」を設置すれば人は安心することができるのだろうか?ではその「安心感」は何に因るのか?
古来様々な思想家、哲学者が公共空間と私的空間、「公」と「私」について言及している。
けれどもそれは当然ながら一様ではない、ヨーロッパの哲学者と東洋の哲学者では主張が異なり、時代により、また文化の違いによっても公共空間をどう捉えるかは異なってくる。
公共空間に於いて安全が最優先されるのは言を俟たない。けれども、秋の落ち葉や、歩く人の足元をほんのりと染めるさくら色、或いは鉛筆の芯やのど飴が危険視され、至る所に監視カメラが道行く人を見つめている世界を思う時、「安全」こそ至上のものだとは思えなくなるのだ。
公共空間については更に考えていきたい。何故なら公共空間=世界に他ならないのだから・・・