2018年4月18日

書くことについて Ⅱ

再びKさんの言葉

ときどき参加する小さな読書会で、なぜ人は書くのか、という話になった。
画家は言う。大学受験のとき、同じ芸大を目指す同級生に、観る人がいなくても絵を描くか?と訊かれた。画家は、描く、と即答した。同級生は、描かない、と断言した。観る人がいない絵を描く意味はない、と。
観る人がいない絵をなぜ描く?と訝られた画家は、世界に向けて描く、と答えた。この場合彼の言う世界とは、人ではないことを言うまでもない。
私は、企みを感じない、昂りのある文章に惹かれる。表現を企図せず、感情をも抑制した、しかし疾走するような文章。それは絵画でも映画でも変わらない。

誰も観るものがいなくともわたしは絵を描くといった者が画家になったのは、ある意味で当たり前と言える。

文章に関して言えば、わたしはたまたまこのような、不特定の人に見られる可能性のある形で書いているが、仮に「誰も読む人がいなくても書くか?」と訊かれれば、その愚問を一笑に附し、当たり前だというだろう。
そもそもわたしの書く物は一般向きではない。基本的にわたしは多数派と異なる立場を採る。 ゴッホと聞いただけで、拒否反応を起こしてしまうのは、全くヴィンセントの意に反してではあるが、彼が世界中の絵を愛する人達に愛されていて、これまでゴッホを嫌いだという人に出会ったことがないからだ。
ならばわたしはその数少ないひとりになろう、というわけだ。決して本当にゴッホの絵を嫌いなわけではない。けれども、意地でも、みなと一緒に「Me Too!」とは言いたくはない。

誰もが愛する人なら、わたしはその人物を嫌いなただひとりの者になろうと思い、
誰からも愛されない人がいるなら、わたしは世界でただ一人、その人を愛する者になろうと思う。
こういう人間が書く物が一般的に受け容れられるわけがない。

書くということは、なによりも、書かずにいられないから書くのであって、それは書き手本人の生存の必要から発するもので、「読者」の存在などは二の次三の次である。
今更言うのも恥ずかしくなるほど当たり前のことだが、書くということは自己との静かなる対話に他ならない。
観る人のいない絵、読む人のいない文など存在しない。
書き(描き)手が、最も重要な観る人であり、読む人なのだから。






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