2018年4月1日

トトロをしばらく見ない

佐江衆一のエッセイ集『裸足の思想』(1979年)に興味深い一文が引用されている。

「・・・平和なる山の麓の村などに於いて、山神楽或は天狗倒しと称する共同の幻想を聴いたのは昔のことであったが、後には一様に、深夜狸が汽車の音に真似て、鉄道の上を走るというふ話があった。それは必ず開通の後間も無くの事であった。
また新たに小学校が設置せられると、やはり夜分に何物かが、その子供等のどよめきの音を真似ると謂った。電信が新たに通じた通じた村の狢(むじな)は、人家の門に来てデンポーと喚はった。」
柳田国男は『明治大正史世相篇』において「時代の音」をこのように誌した。 

たぬきの汽車、むじなの電報配達、そして深夜の学校での子供たちの声・・・

柳田民俗学を引いて、日本の近・現代批判をする佐江衆一の文章全体よりも、わたしは単純にこの描写に魅了された。
更にわたしがおもしろいと思ったのは、それが廃線になった鉄道や使われなくなり廃校となった学校の教室や、人気の少ない古びた町ではなく、新たに敷設された鉄道であり、新築の校舎、はじめて開通した電信であるという点だ。

生き物たちはここでは寧ろ「死んでしまった場所に姿を現す」「お化け」というよりも、人間の新技術を笑っているようではないか。いや。たぬきやむじなたちは「鉄道」や「学校」「電信」をもまた「人間の遊び」と考え、人間と一緒に遊んでいたのではなかっただろうか?

技術の進歩は「彼ら」を置き去りにしてきたのだろうか?
船が陸地から遠ざかるとき、果たして「取り残された」のはどちらの側に立つものだろう?

「妖怪変化」という。けれども、子供たちは、汽車の真似をして線路を走るたぬきや、デンポー!と門口で呼ばわるむじなと遊びたいのではないだろうか?
技術の進歩は、たぬきやむじなだけではなく、「人間という規格」に嵌った硬直した存在となる以前の、寧ろ動物により近い子供 =「変化」(へんげ)たちも一緒に陸地に、或いは大地から遠ざかる船の上に置き忘れてきてしまったのではないか?



松山巌は『住み家殺人事件 ー 建築論ノート ー』(2004年)のなかで次のように記す

かつて子供たちは自然の中で「あばれまわり、ひざ小僧をすりむいて血が出たり、虫にくいつかれたり、さされたり、ウルシにかぶれたり」しながら生きていたことを本当に忘れてしまったか、知らないかもしれない。
「自然がどのようなものとして、子供の前にあらわれるにしても、まず、からだで、感覚でそれを受け止める経験を、かれらにはもたさねばならぬ。人間の歴史の知識とことばとで、それを教える前に、五感や行動でそれをつかむ時代を経させなければならぬ。
そうでなくては第二の自然としての人間の幼い世代は健康に育たない。そういう時代を経させるために、子供たちには「ひまな時間」が存在するのである。いや、存在しなければならぬ。」
ー 国分一太郎『しなやかさというたからもの』
この国分の意見に納得する人は多いだろう。しかし現在の子供たちは、「ひまな時間」をもつどころか、自然と向き合うべき「ひまな場所」を家の近くに持っているだろうか。

ちなみに松山のこの『住み家殺人事件』は、「建築」という表象を通して、近・現代の社会の在り方、そして現代人の存在の仕方に対する徹底した批判の書である。

2016年のオリンピックに東京が落選したときに、彼は「これで東京ももう少し生き延びることができる・・・」と書いた。

この本にはこのような記述もある

正岡子規は、「根岸近況数件」と題し、「田圃に建屋の殖えたること」「某別荘に電話新設せられて鶴の声聞えずなりし事」「時鳥(ホトトギス)例によって屡々音をもらし、梟何処に去りしか此頃鳴かずなりし事」
(『病床六尺』1902年7月1日)と記している。
日本の近代は、子規を早世させた結核と、東京の片隅から鶴とふくろうの啼き声を消した。いや殺したことからはじまった。やがて「田圃」も「時鳥」も消され、「建屋」が増大し、と同時に、「電話」という新しい通信方法が人と人との関係を大きく変革したことからはじまったのである。

花がなければ
世界はさびしいか
ならば
それがないために
かく荒涼としている
というものは
なにか
ー 川崎洋 「花」 

この問いに俄かに答えるのは難しい、近・現代の歴史は多く喪失の歴史でもあるのだから。けれども喪失の裏には必ず新たなるものの出現が伴う。
森が失われ、工場が建つ、或いは観光地になる、河川が埋め立てられ幹線道路ができる、山を切り崩し高速の鉄道が走る。空地に高層マンションが建設される・・・

「それがないために かく 荒涼としている」というよりも、わたしは寧ろ
「それがあるために」かくも荒涼とした世界になっているというものが多すぎると感じている。

今日は「エイプリル・フール」
'Fool'の仲間には 'Clown' (道化師)や 'Joker' (冗談をいう人、或いはトランプのジョーカー)と言った言葉たちがある。

子供たちを笑わせて一緒になって遊んでくれるたぬきやむじなは「高貴なフール」で、「スマート」を自認する玩具で悦んでいる人間たちよりも、遥かに純粋で美しい目をした生き物たちなのだろう。











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