2018年4月14日

男尊女卑の豚野郎(或いはある敗残者の弁)

豚野郎などというと、ブタに失礼に当たるので、男尊女卑の下衆野郎としようか。
わたしはやっていないが、ツイッターに、とてもうつくしく、透明な文章を書く女性がいる。わたしはしばしば彼女のページを覗きに行く。
「ああ、上手だなぁ」と思う。こんな風に書くことができたらなぁ・・・と嘆息を漏らす。
けれども、ひとたび自分の文章への嫌悪感、ひいては自己の存在への嫌悪感があたまをもたげ始めると、そんな殊勝な(?)気持ちはたちまち雲散霧消してしまう。
羨望が嫉妬に替わり、やがては激しい憎しみの対象となる。
男尊女卑の本性を現したわたしは、彼女のいちいちの言葉に悪態をつく。
「ケッ!ばっきゃろー、気取ってんじゃねえよ!何様のつもりだよ、お高くとまりやがって。オ・ン・ナ・ノ・ク・セ・ニ・・・」
傍にいればひっぱたいているかもしれない。
けれども、殴られても蹴られても、はたまた殺されても、彼女の才能がこちらに移ってくることはない。金品ならば、力づくで奪い取ることはできても、才能は決して奪うことはできない。

若く、美しく、聡明で、その人柄によって誰からも愛され、その才能によって敬われるような女性に、愚鈍で醜悪、臭気フンプン、才能の欠片もない男の悲しみなど分ろう筈もない。
彼女は踏まれても蹴られても、倒れて泥にまみれても勝者であり、わたしは殴ろうが唾を吐きかけようが所詮は敗者なのだ。

「彼女」のような文章を書く男性をわたしは見たことがないが、仮に相手が男性で、わたしが女性だったら・・・やはり同じだろう。わたしは「彼」を憎み、「男のくせに」と毒吐くのだ。

「天賦の才」と呼ばれるものが、この世の勝者と敗者を決定づける。
才能はいかなる富を以てしても、或いは力をもってしても、決してその持ち主から奪い去ることも、譲り受けることも出来ない。そして人間の思想(志操)・尊厳・内心の自由もまた同様に、いかようにしてもその主から引き離すことの出来ないものだ。だからこそ為す術のない惨めな敗者は怒り狂い、彼らに「肉体的」な苦痛を与えること以外、なにもできない。

勝者と敗者は生まれ落ちた時から既に定められている。
内容を持つ者、「(美質・美徳により)満たされた器」すなわち勝者である。









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