2018年4月24日

生れたわけ

もう30年以上前に切り抜いた新聞の、読者の投稿を時々眺める。

いわき市 佐々木スミ
    (無職 79歳)
四月十五日付「読んで下さい娘の作った詩」を読みました。私は体まで揺れるような感動を受け涙が流れ、周藤勝彦様の親心が痛いほどわかりました。
実は私、脳性マヒの娘の親です。娘は言語障害の上車椅子に頼っており、重度障害者施設にお世話になって、先生方の教えと励まし、入所者たちの友情で元気に過ごしています。一生懸命に話をしますのに通じないので、どんなに悲しい思いをかみしめていることと思います。先生に励まされ、友だちと一緒にいたわり合い、思うことを詩に託して生きがいを感じているようです。
初めて書いた娘の詩を読み、この子がこのようなことを考えていたのかと、うれしく切なく、胸に抱きしめて泣きました。その時から下手なりに、身の回りのことを詩にして、自分の生きがいにしているようです。周藤さん、どうぞ娘さんを褒め、励ましてください。終わりに、わたしの娘の書いた詩を見てやって下さい。
敬老の日に七十を超えた母が面会に来た。
ふつうの年よりなら孫に肩をたたいてもらう日だろうに、
娘の好きなケーキを買ってきた。
そして三十になる娘の口に食べさせる母はどんなにつらいだろうに。
いつまでも苦労をかけてご免ねとつぶやく
母の目には涙がほほに流れた。


この時ご母堂は79歳、もう亡くなられておられるだろう。
娘さんも60代だろうか。

けれども、ただこの一瞬、ただこの一篇の詩のためだけにでも、
娘さんとお母さんは、ともに、生まれてきた幸福を持てたのではないだろうか。


シモーヌ・ヴェイユが、終焉の地ロンドンで、両親に宛てた手紙、

この地でも、春はじつにみごとです。ロンドンには、白い色、ピンクの色の花が咲く果樹がいっぱいあります。
・・・おふたりがご健康でいらっしゃり、お金のご心配もないようでしたら、どうぞ青い空や、日の出や、夕日や、星や、牧場や、花が咲き、葉がのび、赤ん坊が育つのを、心から存分に味わいたのしみつくしてくださったらいいのに、と何よりもねがっております。
一つでも美しいものがあるところにはどこでにでも、このわたしもいっしょにいるのだとお思いになってください。

「偉大な」と呼ばれる哲学者であれ、重度の脳性マヒをもつ者であれ、母にとって、その貴さと愛おしさは寸分の違いもない。彼女たちがいることこそがうつくしいのだ。

より弱い者にこそ美を見出したヴェイユのような高貴な精神が、現代人の心から夙に揮発し去り、一方で一部の者たち=自称知識人たちによって彼女が神格化されていることに居心地の悪さを感じる。
いま必要なのは、ヴェイユという偶像を仰ぎ奉ることではなく、かつて彼女の眼差しに映し出された弱き者、餓えた者、汚れてしまった者たちに、思いを馳せること、せめて心なりとも彼らの存在に寄り添うことではないのだろうか?それはとりもなおさず、この世界に僅かに残された美と(自分自身をも含む)人間性の残照に対する、人として為しうる最低限の表敬ではないのか・・・

老人、幼子、障害者、病者、弱者、また人生の敗北者、落伍者、故郷喪失者など、あらゆる孤独な魂は、その悲しみゆえに美しくはないか?
こぼれる涙よりも、美しいものはあるか?










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