2018年4月16日

Nippon Cha Cha Cha!

連日政治絡みの鬱陶しいニュースばかりが流されているのを視たり聴いたりしているのにうんざりし、世界の檜舞台で脚光を浴びている日本人の活躍でも見て溜飲を下げようといういう人も少なくないのではないだろうか。
スケートのHや、野球のOなどの活躍ぶりを見ていると憂さを忘れる。「ガンバレー!」と、思わず叫ぶ。

スポーツ観戦して気分転換をするのはいい。しかしそれが日本人選手でなければならないわけでもあるのだろうか?
そもそも何故、身内でも親類でもない、単なる同国人というだけで、日本人が注目を浴びているのを斯様に無邪気に、まるで我ことのように悦ぶことができるのだろうか?



本日、四月十六日付け夕刊一面に以下のような見出しが躍る

「祝」羽生 沸く仙台

小見出しは

22日、故郷で五輪連覇パレード
Tシャツ販売に行列 / ホテル満室

記事によると、

祝賀パレードを二十二日に控えた出身地の仙台市が、早くも”羽生フィーバー”に沸いている。記念Tシャツは飛ぶように売れ、ホテルの予約は満室状態。
経済効果への期待が高まる一方、運営側は準備にてんてこ舞いだ。

四年前のソチ五輪冬季五輪のパレードは主催者発表で約九万二千人が集まった。
今回は十二万人を見込む。
警備も厳戒態勢だ。
・・・云々とある



作家中井英夫に「晴朗な殺人者」という短い文章がある。

毎年夏になるとマスコミは、七月末ごろから原爆の記事を出し始め、八月十五日をピークに戦争への反省が続き、それが過ぎるとピタリと口を閉ざすのが恒例となっている。
 (略)
加熱する一方の高校野球の、しかもたかが予選のために、四ページもの勝った負けた滑った転んだを連日大げさに扱うかたわらでとなると、事態はやはり異常過ぎるというしかない。
おそらく日本人一般は、高校野球何が悪いと眼をむくことだろう。若者の熱血、清らかな汗のすがすがしさといった美辞麗句の蔭に、どんなに生腥(なまぐさ)い薄汚なさが潜んでいるかに気づかず、ともども郷土愛を兼ねて酔い痴れる民衆は、かつての日、南京陥落に提灯行列をし花電車を出して祝い、太平洋戦争緒戦の戦果に狂喜し、戦後もまた古橋広之進の力泳に日本の勝利を重ね合わせて”ああ古橋よ涙流るる”などと歌ったブラジルの”勝ち組”の発想と自分とがまったく等質だとは、夢にも気づいていない。しかし、そこにあるのはただ力の論理だけであり、敗戦の記憶もまたその中では風化するしかないだろう。

その後朝日新聞紙上に掲載された、当時十二歳の在日朝鮮人三世の少年が自殺したことに触れ、それを「いじめによりむごたらしい他殺」と書く。

死んだのは林賢一、十二歳、小学校卒業時に級友たちから記念のサイン帖を贈られた。
だがその内容は世にも異様な呪詛の数々であったのである。
 (略)
著者の金賛氏がいうように、このいじめが民族差別と結びついていたことは確かだが、子供たちだけでそれを嗅ぎ分けることなど本来不可能であり、明らかにそれは彼らの親たちの暗黙の了解の下に行われた。”勝ち組”の遺志をなお烈々と伝え続ける親たちによって。

そして中井は、このサイン帖に、彼を自殺に追いやった言葉を綴った子供たちは、この先、こころに一点の染みも持たぬ、「晴朗な殺人者」として一生を過ごすことだろう。と記す。
「ちょうど戦犯に問われずに済んだ、多くの陸海軍指導者たちがそうだったように」

そして文章はこう結ばれる

しかし、絶望のあまり六月十八日、一度目の自殺を試みて果せず、汗びっしょりで帰宅したのにおどろいた両親が学校に届け出ると、それ以後ますますいじめはエスカレートしたという、このあっぱれな日本民族のエネルギーは、当然それなりの罰を受けることだろう。

海外で活躍する「同国人」「同胞」を応援し、その活躍に胸躍らせることと、「人種差別」と、いったいどういう繋がりがあるのかと不快に思う人もいるだろう。
では借問する。あなたがたは何故そんなに日本人の(海外での、或いは国際的な舞台での)勝利に歓喜するのだ?
新聞は何故、国の大事よりもオリンピックのメダル数をかくも気にするのか?
何故国の腐敗に憂い顔を見せ、同じ日、同じ顔で、日本人のメダル獲得の報に破顔一笑してしまうのか?
今この時、国政への「抗議デモ」の四倍にもなろうという人々が「祝賀パレード」に集まるというのはいかなるメンタリティーか?

わたしは中井英夫の言葉を繰り返す

事態はやはり異常過ぎるというしかない・・・









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