2018年4月6日

最期の残照を見た

新聞の外信欄の小さな記事。

北京の中心部にある名高い音楽ホールで、ニューヨーク・フィルハーモニー・オーケストラの演奏会が催された。記者が席に着くと、場内のあちらこちらを赤いレーザー光線が飛び交っている。なんだろうと思っていると、どうやら、場内で、カメラやスマートフォンで演奏会の模様を撮影する人に撮影禁止を伝えるためらしい。

「二時間余りの上演中、ホール内の至る所で、写真撮影を試みる人と、レーザー照射の「いたちごっこ」が繰り広げられていた。すぐに撮影機をひっこめる観客もいれば、照射が続いても全く気に掛けない強者もいた。
赤い光の乱舞に、すっかり興ざめした名曲鑑賞の夕べとなってしまった」
(四月五日付け夕刊より)



こんな演奏会ってあるだろうか?仮にわたしが観客のひとりとしてその場にいたら、たとえどんなに高いチケット代を払って手に入れた席であっても、ただちに会場を後にするだろう。連れがあったらその人もきっとわたしと同時に席を立って出てゆくだろう。(そんな場所にそれでも残りたいというような人とは、そもそも友達にはなっていないはずだから)

この記事を読んで驚くのは、演奏会の模様を撮影しようとする者が一人や二人ではないということ。そして予め、撮影をしようとする者に対して、レーザー照射で禁止を伝える専門の係員がいるということ。それはとりもなおさず、そのようなことが決して珍しいことではなく、最早傍へ近づいて行って小声で注意するなどという方法ではとても追いつかないほど「撮影者」が溢れているということだ。

コンサートや演奏会でのこのような光景がいまや日常茶飯事であるのなら、それでも尚、
演奏会に足を運ぶ人がいるのだろうか?
オーケストラの指揮者、或いは演奏者たちは、そのような環境の中でも演奏を続けるのだろうか?
これはひとり中国だけの現象なのだろうか?

人というものはそもそもがこのように愚かしい存在だったのだろうか?
それとも、ある時を境に急速に劣化してしまったのだろうか?

嘗て各家庭にテレビが普及し始めた時、評論家大宅壮一は「一億総白痴化」と言った。
しかしテレビはまだ家の中に固定鎮座しており、ひとはわざわざその前ににじり寄り、坐るなり寝そべるなりして視ていた。ところが今や、白痴化の元凶は自由に外の世界を跋扈している。
白痴化の自乗・・・

「必要は発明の母」とかつては言われた。
またある人は「発明は必要の母」と言った。そして今に至って、「発明は(  )の母」となった。
(  )の部分には「愚昧化」「滅亡」「醜さ」「堕落」等、適宜言葉を入れて頂ければいい。

かつてインターネットなどというものが、携帯用端末などというものが存在しない時代があって、わたしはそんな時代を生きてきた。それは人間が人間であった最後(最期)の時代であり、わたしはなんとかそこに間に合ったのだった。

人類が滅びること、人が人でなくなること、嘗てヒトと呼ばれていた生き物が絶滅するために、もはや「核」は不要だ。

科学技術は、「文明」は、「文化」を、「芸術」を、「美」を駆逐した・・・

パゾリーニに倣ってわたしは言う、

「人間よ、呪われてあれ・・・」


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