2018年4月18日

書くことについて

フォローしているこうさんのブログに、とても興味深い記事が書かれていた。
元になったのは四月十六日付けの読売新聞に掲載されていたインタビューだと仰っていたが、うちは読売新聞を取ってないし、図書館で該当記事を探すことさえ今は億劫になっているので、こうさんの日記をそのまま引用する。



「小説家の角田光代さんは、文学賞を取ったあと、次の作品を書くときに
編集者から幾度も幾度も書直しをさせられたのだという。

まだ、彼女がオフィスで勤めていた頃で、昼休みに喫茶店でその編集者と会うと、赤を入れた原稿を渡され、ああだこうだと言われ、ほとんど書直し。それが幾度も幾度も続いたという。

しまいに、角田さんは書直しが苦どころか、好きになったのだという。

そして最後に編集者は、単行本になった彼女の作品を数冊喫茶店に持ってきて、そのうちの一冊を彼女に渡す。

いやあ、すごいなあと思う。今の作家ってこうなんですね。

それにしても、角田さんはすごいなあ。やはり力があったから、そして努力を惜しまなかった。
書き直すだけの力量があったのですね。」


わたしはここに書かれている角田(かどた?かくた?すみた?)という作家を知らないが、この記事を読む限りでは、出来上がった作品ははたして彼女のものだと言えるのだろうか?
言われるがまま(?)に何度も手直しをして仕上がった作品は、その時点で、自分の思う通りに書かせた編集者の作品に他ならない。角田氏は単にそれを筆写しただけだ。
なぜこんなややこしいことをするのだろう?
何故編集者が自分で書かないのだろうか?

仮にわたしが作家であって、このような状況に置かれたら、ものを書いて飯の種にするなんて仕事はさっさと打っ棄ってしまうだろう。
駄文であろうと、わたしはわたしの書きたいことを、わたしが書きたいように書く。
「編集者」というのは、元の作品を「商品」として「より多くの人に読まれる=売れるように加工する」職業なのだろうが、それは最早「わたしの」作品ではない。

インターネットのほとんど唯一の利点は、作家でも何でもない普通の人が、何の加工もなしに書いた「素のままの」文章を読むことができるということに尽きる。

それにしても、今日「作家」と呼ばれる人たちは、畢竟編集者なる商売人の傀儡(くぐつ)に過ぎないのだろうか・・・







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