2018年3月30日

Michikusa (道草)

なにかを書こうとすると、迷った挙句掬い損ねて、手からこぼれたより多くの言葉の方に気持ちが行ってしまう。

書くということは、いちめんの草原の中に一本の細い道を敷いてゆくことに似ている。切り拓かれた道の両脇には瑞々しい緑の草が生い繁り、さまざまな野の花が風にそよいでいる。時々ウサギが顔をのぞかせる。なにやら自分の作った貧相な路よりも豊かな世界がそちら側に広がり、輝かしい秘密が隠されているように感じられてくる。

子供のころ、夏休みの田舎道を犬と一緒に歩いた。犬はいつも道路わきの草の中に潜り込むようにしてザワザワと進み、下を流れる渓流に降りて行こうとし、なかなか人が作った「本道」を、わたしと一緒に歩こうとはしなかった。わたしにとっては「散歩」でも、犬にすれば、それは冒険のようなものだったのかもしれない。犬が紐を引くのに任せて、わたしは叢に分け入り、友が舌を鳴らす横で、冷たいせせらぎの水に手を浸すのが心地よかった。犬をわたしの歩く「本道」に連れ戻そうとはしなかった。泥道で靴を汚し、草の葉や棘で、半袖半ズボンの手足にかすり傷を負わされながらも、空を舞う小鳥の声を真近に聴き、小川の流れに汗をぬぐう・・・「道草を喰う」ことこそ、散歩の醍醐味だと知った。
犬と一緒に野山を駆け回っていたあの頃を懐かしく思い出す。
車の行き来が多く、緑の少ない都会ではそういう楽しみも味わうことはできないが、仮に叢に分け入ることはできなくとも、道連れがいったい何に興味を示すのかを観察しているだけでも興味は尽きないように思う。


ふりかえってみると、私が独り酒の味をおぼえたのは、三十数年前、パリで独り暮らしをしていたころのようだ。
フランスには、キャフェという独り酒に好適の場所がある。日暮れ時テラスに坐って、通りを行き交う人々を眺め、そのひとりひとりに人生のドラマを想像しながら飲む酒の味はまた格別だった。
夜が更けて、客の絶えた静かな店の片隅で独り飲みながら過去の追憶にふけったり、自分を相手に対話したりして時を忘れた
ー 山田稔『八十二歳のガールフレンド』(2005年)より

これなど正に街中の、群衆の中にあっての「眼(と心)の道草」と言えるだろう。

最近は携帯電話を一心に見つめながら物のように犬を引っ張りまわしている人を多く見かける。
通りに面したカフェのテラスで、道行く人の人生に思いを馳せたり、遥かな追憶の中に心を漂わせたりするよりも、席に着くや否や「それ」を取り出し、小さな画面に夢中になっている人が多いような気がする。

人は最早道草を喰わない生き物になってしまったようだ。
けれども、古来、道草があってこそ、俳句が詠まれ、詩が生れた・・・

        吟 行
菜 ば た け に 花 見 顔 な る 雀 哉  (芭蕉)

(「吟行」すなわち「道草」であった)








0 件のコメント:

コメントを投稿