2018年3月14日

事象を突き抜け主観へ至る・・・

かつてアナイス・ニンは言った

" We don't see the world as it is, We see the world as we are "

「わたしたちは世界をありのままに見ない。わたしたちは世界をわたしたちのあるがままに見る」

これはニーチェの

「”事実”というものはない、ただ”解釈”のみがある」

という言葉と向き合っている。

わたしたちは「歴史」を、または眼前の現象、出来事を「そのあるがまま」に見ることはできない。

竹中労の『黒旗水滸伝・大正地獄篇』を読んで強く感じたのは、書くことのダイナミズムだった。

竹中労自身の言葉を引く

「なべて表現は作為の所産であって、「虚実の皮膜」に成立する。事実もしくは真実は、構成されるべき与件でしかありません。そもそも、無限に連鎖する森羅万象を有限のフレームに切り取る営為は、すぐれて虚構でなければならない。活字にせよ映像にせよ、ルポルタージュとは主観であります。「実践」といいかえてもよい、ありのままなどという没主体であってはならないのです・・・物自体は不可知であっても、センシビリティによってその意味に迫り得る。言葉を換えるなら「直観」こそルポルタージュの最大の武器でなくてはならず、作為をおそれてはならぬのであります。憶測であれ推理であれ、”仮説”を立てて対象に挑むこと、予断から出発すること。時には感性に任せて、みずからの言葉の嵐のただ中に漂泊してしまうこと・・・」

『ルポライター事始め』(1980年)



『黒旗水滸伝』を読んでいると、正に歴史とは解釈に過ぎないということを改めて感じさせられる。

有島武郎の自殺(心中)、或いは大杉栄のパリから帰国後の様子についても、それぞれの「身近な人たち」から全く異なった証言が為されている。
有島武郎の弟、生馬の言うように「まったく事実無根のことを新聞が書いている」というような場合は別として、有島、或いは大杉にごく近しいAさんとBさんの「その後の証言」が何故こうも異なるのか?
これは、「どちらが正しい」かではなく、あくまでもAさんとBさんの「視点」乃至「主観」の相違から来る異同でしかない。

インターネット利用者が事毎に典拠として「ウィキペディア」を持ち出して、あたかもそこには「事実」と「真実」しか書かれていないかのように「信頼して」いるのを見るにつけ、なぜこうも「ひとつの事実」というものに固執するのだろうという思いを抱いてしまう。

そういう意味では、竹中労自身の著作もまたひとつの視点でしかあり得ない。繰り返しになるけれども、なにを信じるかは、つまるところ個人個人の「趣味・嗜好の問題」に帰着するだろう。

『メメント』という映画があった。妻を殺されたショックで記憶障害になり、10分間しか記憶することができない男が、復讐の過程で出会った人、場所、事件をからだに彫り込んで忘れないようにする。彼は「記憶は裏切るが記録は裏切らない」と信じている。
ところがそのメモに書き添えられる小さな主観「彼は信頼できない・・・」というような些細な主観的脚色が彼を決して真っ直ぐには進ませない。

「記録もまた嘘をつく」のではない。そもそも事実それ自体というものをわたしたちは決して見、また知ることはできない。

歴史的事実、そして物事はすべからく主観的たるを免れない。
なにを是とし、なにを非とするか、何を信じなにを疑うか?それはひとえに個々の主観に因っている。


「客観的になにが真理であるかを見定めることは相変わらずきわめて難しいが、[・・・]
こちらの言うことが「あまりに主観的」であるという反論に出会うことだ。その反対に周囲が共鳴し、分別のある人々が異口同音に憤怒の声を放つようなら、当方としては束の間にせよ自分に満足してよい理由があるのである。

主観的なものと客観的なものという概念は、いつのまにか完全にさかしまになってしまった。客観と称されているのは、現象の議論を孕まぬ側面であり、よく吟味せずに受け入れられた現象の写しであり、分類済みのデータを組み合わせて作った「事物の見せかけ」(ファッサーデ)であり、つまりは主観的要素である。それに対して主観的と呼ばれているのは、そうしたファッサーデを打ち破り、問題になっている事柄に特有の経験に踏み込んで行き、その事柄に関する判断上の合意を放棄し、対象そのものに対する関係を、対象を熟視したことすらない(まして考察したことなどない)連中の多数決に取って代える行き方ーーつまりは客観的態度なのである。
  (略)
この種の客観性に当面した理性としてはーー窓のない暗室に引きこもるようにーー個人的好悪に逃げ込む以外にない、すると権力者の恣意がその恣意性を咎め立てるのだが、権力者としては、今日個人主観によってのみよく保たれている客観性が怖ろしいのであり、したがって個人主観が無力であることを望んでいるのである」

ー テオドール・アドルノ『ミニマ・モラリア』1944年著(P91~92)

客観性なるものに埋没することなく、事柄と切り結ぶこと。自らの好悪を対象とすり合わせること。
客観的事実という遁辞に惑わされずに、主観的であること・・・

竹中労はこの『黒旗水滸伝・大正地獄篇』上・下巻千余ページを執筆するにあたり、彼自身「古本屋巡りだけで原稿料がそっくり消えちゃう」と言うほどの「資料」を跋渉している。
けれども出来上がったものは優れて竹中の「主観的」大杉栄であり、甘粕正彦であり、大正期に輝き消えた「百八つ」の星々の像(すがた)であった。

もう一度、アドルノの言葉を、

「その客観性なるものは、この世界を牛耳っている連中の主観の計算から出たものでしかない」


再度、しつこく、今度は『黒旗水滸伝』本編最後に掲げられた竹中労の言葉を引用する

「・・・連載中「事実と違うのではないか?」というご指摘をなんども頂戴した。それはおおむね「文献」に依拠したクレームで、あの書物にはこうある、この記録ではこうなっているというものだった。「ルポライターが嘘を書いてもよいのか」と、執拗に何度も手紙をよこした人もある。
事実、もしくは真実は、ルポルタージュの与件に過ぎないということを、いくら説明しても、ある種の人びとは決して理解しないのでアル。だが、たとえばこんな風に<物自体>は不可知であって、表現者はただセンシビリティ=感性によって、対象に迫り得るのである。という言いまわしで、それらの人々を沈黙させることはできる。」


そしてわたしが「信じると決めた」歴史的事実も、社会的な出来事も、またひとつの主観的現象であり、わたしにとっての真・善・美即ちわたしの個人的嗜好に他ならない・・・




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