2018年3月26日

懈怠のうちに死を夢む・・・

わたしは例外であり、相変わらず拒みつづける個なのであった。
しばしば引用される有名なテレンティウスの「わたしは人間である、とすれば人間に係りあることのなにひとつ、わたしにとって無縁ではない」という言葉をここで持出すとすれば、その頃のわたしは、もしかして人間ですらなかったのかもしれない。
ー 矢川澄子『反少女の灰皿』(1981年)より

「そのころのわたしはもしかして人間ですらなかったのかもしれない」という言葉を借用するとすれば、いまのわたしは最早人間ではないのかもしれない、そんな思いを、わたしは近頃とみに強く持ち始めている。
より厳密に言うなら、二十一世紀の地球に生きる人間では最早なくなっているのかもしれない、と。

こころが辛いときにわたしを慰めてくれるのは、悲しい音楽、悲しい映画。特にエンディングには最早主人公が存在していないような作品。

わたしの好きな二つの映画、『バタフライ・キス』と『海を飛ぶ夢』
ふたつの作品に共通しているのは、一番信頼している人に自分を殺してもらうこと。
わたしはそれらの映画を観て涙を流さない。
そのような「真の友」に巡り逢えたことを心から羨ましいとは感じるけれど。

・・・確定死刑囚と私を決定的に分かつもの、それは人を殺したことがあるかどうかではない。殺人というなら、戦争や飢える他者への想像を放棄したり冷笑したりすることによる未必の故意の殺人でこの国の人々の大半は有罪だ。確定死刑囚と私を画然と区別するもの、それは国家が彼らに断じて自死を許さないのに対し、私は自死の権利を少なくとも揚言することができ、うまくすれば実行することもできる、ということだろう。
ー 辺見庸 『自分自身への審問』より

死ぬことを
持薬を飲むがごとくにも われは思へり
心痛めば (啄木)

この歌を何度繰り返したことか・・・






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