2018年3月22日

ノート つれづれなるままに Ⅱ 

むなしさの大きなひろがりのなかで
どんな系にも属さない星のように
拒み拒まれる個であろうとするか
避けがたい万有の引力に
汝が肌の痛むときにも?
ー 多田智満子「挽歌」より



My room place, ca 1868, Wilhelm Busch. (1832 - 1908)



「シガ フタリヲ ワカツマデ・・・」
死は愛を別つことはできない

とはいえ、それは死んだ者があなたの傍にいるというような意味ではない。
ピアフの『愛の讃歌』で歌われているように、死がふたりを別つことができないということは、どこまでも一緒に行くということ。

「こぼれ松葉は 枯れて落ちても 二人連れ」
ー 志ん生 『心中時雨傘』より



手紙 

そのひとの「手」で、その人の言葉が綴られた「紙」
ひさしくそんなやりとりをしていないせいで、わたしの魂の一部が干上がっている。
それがわたしに過度にディスプレイ上の文字への反感を起こさせるのかもしれない。


「みる」「きく」「ふれる」「におう」「あじわう」
これが揃っていれば、「かく」「はなす」能力などは無くてもよいと思う。
但し、人間の五感に相応しい世界が未だ存在するのならば、という前提付きで。


強い透明志向があって、純一無雑を望むなら、言葉を書くことも絵を描くこともできないだろう。表現するとは、透明な湖水に一石を投じて波紋を生じさせることだ。



世の人々が見ている世界と、わたしが見ている世界とは、仮に網膜上では同じであり、物理的(形而下的)には同一のものでも、本質的にはきっと異質なものなのだという思いが拭えない。
だれもわたしに世界の美しさを示し、わたしを納得させることはできない・・・



一人、二人、三人・・・とはいうけれど、
独り、二人、三人という数え方はしない。
「一人」と「独り」とはちがうのだろう。


Sleeping with Bear, Mark Simont.  




















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