2018年3月24日

病んだ躰、歪んだ心

時折ツイッターをのぞくことがある。勿論わたしはやってはいない。と大見栄を切りたいところだが、実は(こっそり言うが)一度だけアカウントを作ったことがある。もっとも2週間ほどで辞めてしまった。沈黙を感じられない、ひたすらつづく黒い文字の羅列。蟻の兵隊のように、とめどもなく列をなす言葉たちの耐えられないほどの軽さ・・・

先日ひとつのアカウントに出会った。
重い病を背負った母親で、投稿によると、16歳(?)になる娘もやはり篤い病に侵されているらしい。
実生活についての記述がほとんどなく、「彼女」の「現実」を知ることはないのだけれど、とても透明な文章を書く人だった。
ツイッターでは、主に書くこと=「本」にまつわる人たちの投稿を読んでいるのだが、「彼女」の書いたものは、他のどのエディターや書店員、デザイナーや文学者、翻訳者などと呼ばれる人たちのものよりも遥かに静謐で、澄んでいた。



光うしないたる眼(まなこ)うつろに
肢(あし)うしないたる体になわれて
診察台(だい)の上にどさりとのせられた癩者よ
私はあなたの前に首(こうべ)をたれる。

あなたは黙っている
かすかに微笑んでさえいる
ああ しかし その沈黙は 微笑は
長い戦の後にかちとられたものだ。

運命とすれすれに生きているあなたよ
のがれようとしても放さぬその鉄の手に
朝も昼も夜もつかまえられて
十年、二十年と生きてきたあなたよ

なぜ私たちではなくあなたが?
あなたは代わってくださったのだ
代わって人としてあらゆるものを奪われ
地獄の責苦を悩み抜いてくださったのだ。

ゆるしてください、癩の人よ
浅く、かろく、生の海の面に浮かびただよい
そこはかとなく 神だの霊魂だのと
きこえよき言葉あやつるわたしたちを。

心に叫んで首をたれれば
あなたはただ黙っている
そしていたましくも歪められた面に
かすかな微笑みさえ浮かべている

ー 神谷美恵子 「癩者に」


「なぜ私ではなくあなたが?
 あなたは代わってくださったのだ」

という有名な言葉が記されたこの詩。

幸せも、不幸せも、たまさかのめぐりあわせに過ぎないのか?
ただ、一つ言えることは、わたしたちの幸福はわたしたちの勝ち得たものではなく、
正にひとつの僥倖であって、同時に「彼ら」の不幸せは決して彼らの生き方に起因するものではなく、これもまた不運なめぐりあわせに過ぎないのだということを忘れずにいたい。

けれどもわたしはここで、幸運に恵まれたものが不幸せなものに尽くす「オブリージュ」について語ろうとしているのではない。

この詩の中で、やわらかな輝きを放ってわたしを圧倒するのは、神谷美恵子の献身的な愛ではなく、むしろ、
「微笑みを浮かべる癩の人」である。

ツイッターにうつくしい短文を綴る女性も、微笑みを浮かべる癩者の眼差も、どうしてそこまで穏やかになれるのか、森の奥で絹のような水を湛えた湖水のように静かに、透明になれるのか?そんな自問が、わたしの中に熾火のように紅い熱を発している。

もしわたしなら・・・

「悟りとは、平気で死ぬることではなく、どんな時でも平気で生きることだ」と子規は言った。己の偏狭な心が悟達の境地に程遠いこともさることながら、わたしはしかし、運命を従容として受け入れるという心的態度に、一抹の違和感をも覚えてしまうのだ。

微笑みを浮かべる癩の人を、「高貴なる魂」と純粋に、手放しに称賛できないこころの濁りが、わたしの胸底にわだかまっている。
何故微笑むことができるのか・・・?

すべての苦しむ人がここに描かれているような心の持ち主ではもちろんないだろう。
しかし、ハンセン病であれ、水俣病であれ、自分を忌避差別し、このような塗炭の苦しみを味わわせた者たちへの「怨」の気持ちが、このようにして見事に揮発(?)してしまうというのはどういう心の在り方なのだろうとわたしは思う。

運命を呪わず、人を憎まず微笑む人は、誰もが讃え、
逆に憎しみに凝り固まった者は、それゆえ孤立してしまうかもしれない。(それが「真っ当な怒り」で「正当な憎しみ」であるにもかかわらず)

神ならぬ人の身であるわたしであってみれば、赦すことは何よりも難しいに違いない。

・・・ひとりの凡俗の徒に過ぎないわたしに、何が善くてなにが悪い、あるいはこうでなければならないという定見はまるでない。
わたしも微笑みを浮かべる癩の人の前に立って涙を流さずにはいられないだろう。
と同時に、恨みと屈辱にのたうち回る人の心の、絶望的な暗黒の流砂もまた、わかるのだ。
そして付け加えるなら、わたし自身、おそらく後者=「憎む人」「呪う者」だろうと感じている。

赦しと受容、憎悪と拒絶・・・そこに優劣や美醜の物差しを当てはめるべきではないと思うのだ。


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