わたしは「新刊」というものをほとんど読むことがない。(つまり新刊を読むことを避けているのだが)今回偶然図書館の新着案内で見つけた、坪内祐三の『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』という本を、タイトルに惹かれて読んでいる。
「戦後論壇の巨人たち」という第一章では、24人の言論人について語られているが、一人一人に割かれているページはごく少なく、坪内祐三が選んだ彼らの「名言集」と言えなくもないような気がする。とはいえ、彼らはみな個人全集を何巻も持っているような「巨峰」ばかりなので、下手に踏み込んで書こうとすれば、たちまち深山幽谷の中に迷い込むことになるのは目に見えているので、さわりの部分だけをちょっと紹介、といったスタンスがかえって賢明なのかもしれない。
坪内氏の選んだ言葉は不思議に魅力的で、右から左まで、この人の言葉、あの人の文章をもっと読んでみたいという気にさせられる。
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花田清輝の項に、彼の「楕円的思考」というものが紹介されている。
坪内氏の引用を孫引きしてみる。
「いうまでもなく楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、依然として、楕円が楕円である限り、それは、醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信じることを意味する。これが曖昧であり、なにか有り得べからざるもののように思われ、しかも醜い印象を君に与えるとすれば、それは君が、いまもなお、円の亡霊に憑かれているためであろう。」
更に坪内氏の引用から
「このフランスの詩人の二つの焦点を持つ作品『遺言詩集』は、白と黒、天使と悪魔、犬と猫ーーその他地上において認められる、さまざまな対立物を、見事、一つの構図の中に纏め上げており、転換期における分裂した魂の哀歓を、かつてないほどの力強さで、なまなましく表現しているように思われる」
「ひとは敬虔であることもできる。ひとは猥雑であることもできる。しかし、敬虔であると同時に、猥雑でもあることのできるのを示したのは、まさしくヴィヨンをもって嚆矢とする。」(初出 1943年)
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多分わたしは「円の幽霊」に取り憑かれているのだろう。
どうしてもこの、ふたつの中心をもった生き方というものを受け容れ難い。
それはわたしの潔癖性なのかもしれないし、青臭いと失笑を買いそうな殉情への志向性ゆえかもしれない。けれども、花田氏の言うように、このような二つの顔を持つ生き方を、確かにわたしは「醜い」と感じる。
それは内閣総理大臣に恭しく頭(こうべ)を垂れながら、一方で反戦を唱える人たちの軽薄さ、薄汚さを厭う心に通じている。そして政権打倒のデモをしながら週末には笑顔でお花見に浮かれ興じる人たちの魔訶不思議な二重の心性・・・
「楕円的思考」とは畢竟狡猾な処世術の謂いではないか、とさえ思うのだ。
またそれは自分自身に対する誠実さに欠けた卑怯な折衷主義的態度にも見える。
「世に従えば身苦し 従わざれば狂するに似たり」ー 魯迅 「自嘲」
「二つの中心」ということは、バランスを取るという意味でもあるのだろう、また特定の原理・原則、教理・教条に安易に盲従・埋没しない生き方を指すものでもあるのだろう。
けれども、現在、二十一世紀の日本に生き、価値観の多様化と呼ぶにはあまりに粉々に砕け散った価値の瓦礫の山に、亡者のように立ち尽くすわたしにとって、寧ろ必要なのは「あれも・これも」ではなく「あれか・これか」という「捨て身の」自己創造乃至自己決定ではないだろうか?
何故なら「あれも・これも」という「複数の重心を持つ」という態度から垣間見えるのは、つまるところ権力を利する妥協主義、順応主義の言い換えに他ならないように思えるからだ。
青いわたしと赤いあなたを混ぜ合わせると黒くなる。
黄色い彼と、緑の彼女を一緒にすると黒くなる。
二つの色を合わせると固有の色が失われてしまう・・・
皆が自分固有の色で生きることができ、自分の内部に白と黒、天使と悪魔といった、相反し相克する心性を持つ必要もなく、自己の外側にある社会の価値観それ自体が、複眼的に「あれも・これも」「白も黒も」「天使も悪魔も」包含する、という状況にならなければならないのではないだろうか?
わたしは個人の持つ「楕円的思考」に違和感を覚える。寧ろ社会がその内側に、無数の中心を持つこと。言い換えれば、個々人がそれぞれ社会の中心になることができる無中心社会=全中心社会の方が、より生き易いと考えるのだ。
とはいえ、このような二つの中心=楕円はちょっと魅力的だ
脳ズイが二つ在ったらと思ふ
考えてはならぬことを
考えるため
ー夢野久作『猟奇歌』より
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