2018年3月12日

秘すべきは「悲」

美しい詩に出会った。

大木実の「金色の時」、そして神谷美恵子の「残る日々」
ひとつは、幼子が乳母車の中で初めて目にするこの世界の美しさを詠った詩、そしてもうひとつは神谷美恵子の最後の病室に残された一篇の詩。

人間の生の始まりと終わりに見たうつくしい世界のことづて。

わたしはそれをここに書き写そうとして、手を止めた。

余りにもうつくしく切ないこの二つの詩を、人間の生と死を、妄りに取り扱うべきではない、と。

「このような場所」に書き写すことは、彼の、彼女の魂を穢すことになると感じた。
加えて、彼らの詩を、携帯用端末で読む人間を想像することは、わたしにそれを書き写すことをきっぱりと放棄させるに十分な理由になり得た。

わたしは最後の最後のところで、インターネットというものを信頼しきれていない。
そしてもっと根源的な生理のレベルで、”デジタル”の世界を好きになれない。

かつてわたしは、少なからぬ人たちがインターネットを通じて、身近な人の喪を伝えているのを見た。親友を、伴侶を、肉親を失いましたと。
それを見るたび、わたしには決して同じことはできないと感じた。
彼らにとって、インターネットとは、既に自らの日々の生活と同じ地平に存在するものなのかもしれない、けれどもわたしにとってそれは大事な人の生・死を語る場には到底なりえない。




変ホ長調の、ピアノ協奏曲の、終楽章の半ば過ぎ、
むせび泣くような旋律が、あらわれて、しばらく続く、
ーー 泣け、というように。
何を歎く?
恋を? 孤独を?
癒されぬこころの痛みを?
移ろう時の悲哀を?
聴くたび、聴こえてくる、あれは、何の歎き?
誰の嗚咽? モーツァルトの?
ノン、モーツァルトがわたしたちに遺しておいてくれたのだ、
ーー 泣きたいときには泣くがよいと。
ー 大木実 「嗚咽」

泣きたいときには泣くがよい、ただひとりで、或いは、すぐ傍にいる親しい人と共に、
けっして大勢(みんな)とではなく

悲しみが深いなら、それを明るみに曳き出してはならない・・・



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