本日四月二十日付朝刊に、哲学者鷲田清一氏の、「「いま」が閉じ込める - 繋がらない怒り」という論考が掲載された。
鷲田氏は、まず、「緩和ケア」について、かつてホスピス医療の先駆者と言われる医師に「何故痛みは緩和されなければならないか」、と問われたことを思いだし、その時に答えた自分の意見から書き起こす。
「激痛は人を「いま」という瞬間に繋ぎ止める。つまり人から過去と未来を奪うからではないか?」と鷲田氏は考える。
人の存在には今現在のみではなく、過去から未来へと流れゆく時間の持続・継続が不可欠である。それに対して、激痛は人の意識を「いま」そして「ここ」に縛り付ける。それは人間の尊厳を冒すゆえに、痛みは取り除かれなければならない。
要約すると鷲田氏はそのように医師に答えたという。
この話を思い出したのは、時間の「庭」が狭まるという同じことが、この時代、それと気づかれることなく人々の意識の中で進行しているように感じていたからだ。
かつての政権ならとっくに崩壊していて不思議ではない、そんな「疑惑」がぼろぼろ出てくるのに、それへの怒りは募っても、「うんざり」とはこぼしても、それが沸騰点に達するまでには至らない。「我慢の限界」というその限界が消失したかの感すらある。
(略)
記憶を過去から引きずる、希望を未来へとつなぐということがなければ、限界の意識もまた生まれない。時間が、「庭」を失い「点」の連続になる。それは政治的な判断も、市場での決定も、そして「国民」の意識も、きわめて短いスパン、そして狭い場所で動くということだ。「またか」とため息をつくのは、いまだそれぞれの「点」の継起のままで、ひとつの出来事として繋がれていないからだ。
怒りと憎しみ(ヘイト)はその攻撃性に於いて似たところがある。違いはといえば、憎悪(ヘイト)が(比較的境遇の近い)特定の他者との比較に於いて最も激化するのに対し、怒りはこの社会への「義」が損なわれていることへと向かうところにある。怒りに今憎悪のような火が付かないのは、憎悪が自分(たち)の存在が蔑ろにされているところから発するのに、「義」が蔑ろにされているという感覚がまだ限界点にまで達していないから、つまりそのことに自分たちの存亡がかかっていると人々がまだ感じていないからではないのか。
憎悪は人々を分散する。それに抗して、「怒り」をいま、どのように意識し、表現するか、そこにデモクラシーに懸けようとするする「国民」への試練があると思う。
わたしはこの論考を読んで、なんとも腑に落ちない思いがした。
前半の「緩和ケア」について、「痛みは人を、いま・ここに閉じ込める」という点には同感だが、その話を後半につなげるにはどうも流れがスムーズではない気がするのだ。
鷲田氏の論考はあくまでも一般論に留まっていて、「日本人の特殊性」というもの捨象しているように思える。
「「我慢の限界」というその限界が消失したかの感すらある。」
というが、こと日本人に於いては、限界点や沸点などは、あたかも逃げ水のようにどこまでもどこまでも遠ざかって、決して辿りつくことの出来ない幻のようなものではないのか。
激痛は人を「いま」「ここ」のみの限定的な存在にさせる。そして現代人は自ら「現在(いま)」を生きる存在であることを以て自ら任じているのではなかったか?
四六時中携帯用端末と共にあり、常に今を確認し、一時間後、二時間後の「今」を確かめる。そのように「今日」(そして「明日」になればまた、新たな「今日」)という「継起する今の連続体」を生きるわたしたちに、いったい「追憶する過去」や「夢を見る未来」といった「流れを持った時間」などというものが存在し得るのだろうか?
「永遠とは、永遠に続く現在である」といった哲学者は誰だっただろうか。
最早われわれ現代人の生は「点」の連続でしかありえない。
また鷲田氏は、あたかも日本が民主主義国家であるかのような前提に立って議論を進めている。
「義」が蔑ろにされているという感覚がまだ限界点にまで達していないから、つまりそのことに自分たちの存亡がかかっていると人々がまだ感じていないから・・・
社会の「義」が蔑ろにされているという意識は、そもそも社会には「義」が存在するという前提が必要になる。すなわち、民主主義や、良識、社会のあるべき姿というものが、市民の中に内面化され、暗黙裡に共有されていなければ、もとより「怒り」は発生しない。けれども現実に日本は真の民主主義体制の国家ではない。であれば、社会の「義」が危機に瀕しているという切迫した危機感が生まれるはずはなく、危機感のないところに当然それを破戒する者への「怒り」は生まれない。
先日ツイッターで、誰かが、国会前のデモを「暴徒」であると言っていた、それに対し、デモ派は、「暴徒が大人しく五時で引き上げまっかいな」と返答していた。
ここに端的に、日本人の「逆鱗の欠如」が露呈してはいないだろうか。
彼らは怒れないのか、或いは怒りたくないのか、それとも怒りを知らないのか、それはわからない。けれども国会を取り囲む人たちは「自分たちは決して暴徒ではないのだ」という。
ここに日本の民主主義の、別の意味での「限界」が垣間見える。
「不正のみ行われ、
反抗が影を没していたときに。」
" When there was only injustice and no resistance." (英訳)
" Wenn da nur Unrecht war und keine Empörung." (独=原詩)
ー ブレヒト
「のちの時代のひとびとに」
嘗て辺見庸は「反抗」が「暴動」であったらよかったのにと書いた。
そもそも政治が法を蹂躙し、苛斂誅求を極める今この時でさえ、「彼ら」はあくまでも「法に則って粛々と」デモをするという。
「暴徒」呼ばわりは不愉快だと。
流れゆく時間も、存在している空間も無い「ただ今この時の怒り」に己の存亡、その全存在を懸け、この一点を無限に拡大することなしに、怒りの沸点は決して発現しない。
けれどもそれは無理というものだろう。「彼ら」にはデモが終わった後の予定があり、翌日の都合があって、週明けの仕事について準備しなければならず、そのために自分のスケジュールを遺漏なく管理してくれる便利な機械を手放すことはないのだから。
「今」が突き崩された時、明日はないのだということまでは、スマートな機械は教えてはくれない。