2018年2月24日

本の帯

本は図書館で借りるだけで、新刊書店に馴染むことができない理由がふと分かった気がした。わたしが図書館で借りる本は大抵古いということもあるが、(よほどの例外でもない限り新刊は読まない。まして、人気のある本は、ただそれだけの理由で避けている)
図書館の本には「帯」がない。
本の帯(腰巻というのか?)は、単に本の内容紹介をしているだけではなく、どう書けばこの本が一冊でも多く売れるか?どうすれば最大公約数的なマスに訴求することができるかという商魂丸出しの惹句が「!」マークと共に派手に踊っている。それを見ると、ああ、これもまたひとつの「商品」なんだなという気分になってくる。本を売ることも、当然ではあるけれども「商売」なのだと。
「快心作!」「累計○○万部!」・・・一点非の打ちどころもないと言わんばかりの殺し文句と、シミひとつなく堂々と腰巻を見せて平積みにされている真新しい本の束を見ていると、それだけで気持ちが萎縮してしまう。
だからわたしは新刊の本屋で雑誌以外の本を買ったことがない。
(いや、雑誌も昔々、銀座の教文館で「クロワッサン」のバックナンバーを買ったくらいか?)





2018年2月23日

無題

今年に入ってからまだ一度も外へ出ていない。数回、階段下のゴミ置き場に、夜、ゴミを置きに行っただけ。まだ一度も今年の空を見ていない。

ああ、外に出たい。そこがうつくしい場所であるなら。
もし犬がいたら、木々に囲まれた田舎の土の道を一緒に走ってみたい。
草の匂いを感じながら草原を飛び跳ねるように走りたい。
潮騒の鳴り響く砂浜を潮風に吹かれながら転がるように駆け回りたい。

もし地上にまだ看板も、アナウンスも流れていない自然のままの土地があるなら・・・
せめて、空を。
看板も、高層ビルも、奇抜なタワーもまだできていない青く澄んだ・・・或いは夕映の濃いオレンジ色の空を眺めてみたい。





わたしの「知識嫌い」或いは「知的な人」嫌いが何に起因しているのかわからない。
ただ漠然とした’Smart Ass’ たちへの嫌悪を感じるのだが、おそらくそこには謙虚さというものが感じられないからかもしれない。「語り得ぬもの」に対して、脱帽し、深く沈黙を守るという畏怖・畏敬の気持ちが・・・
利口な人たちは、その利口さ聡明さ故に「粛然として頭(こうべ)を垂れ口を噤む」ことを知らない・・・





ショーペンハウエルや太宰治がそうしたように、無知な人々は常に知識人の嘲笑や侮蔑の的であったし、これからもそうだろう。
ハブなんとかというスケーターやスマートフォンを嫌う人間が存在しないように、
無知を礼賛するわたしは決して誰からも理解されることはないだろう。


ああ、それにしてもわたしの「本嫌い」の根は深い・・・





「知(識)」がある種の「財産」「資産」であることは疑いがない。富の分配の在り方によって階級が生れるように、「知」もまた階級を生み出す。わたしのように「無知な者」は最底辺の階級に位置する。
ひとはジャン・フランソワ・ミレーの描いた貧しい農民の姿を美しいという。
けれども果たして誰が「貧しく乏しい知」を讃えるだろう?
ミレーを愛する者もまた「知的上流階級」だ。

かつてわたしの親友だった人と一緒に銀座を歩いていた。わたしが「資生堂」の前で足を止め、中に入ってみようとしたところ、「そんなところはブルジョワが行くところだ」と立ち去ってしまいわたしは当惑して後を追った。資生堂を観たいと思ったが、当時からなんとなく彼女の気持はわかる気がしていた。
わたしは「無知で構わない」と開き直っているのではない。むしろ「無知」=「無垢」こそ人間の目指すべき姿だと考えている。





同じようにバッハ好きでも、神谷美恵子の語るバッハと、エミール・シオランの描写するバッハはまるで別人のようだ。結局のところ、

" We see the world what it is: We see the world what we are "
「人は世界をありのままには見ない。人は世界を我々があるように見る」

というアナイス・ニンの言葉の通りだという思いを強くする。





誰の言葉だっただろう

「この世にまだ愚という美徳があったころ・・・」





わたしの態度は懸命に学ぼうといういう人を貶めているのだろうか?
そうではない。あまりに多く学んだ末に堕落した者たちを見過ぎたのだ・・・











「無知」ということについて、「無知」は罪か?

もう30年ほど前、わたしが二十代のころのテレビCMで、印象に残っているものがある。
といっても、それがなんのコマーシャルであったのかは、まるで覚えていない。
若き日のヴィクトル・ユゴーが、パリの出版社に出した手紙で、書かれているのはただ一文字「?」そして出版社からの返信も同じく一文字「!」

説明には及ばないだろう、ユゴーは自分の小説の売れ行きを尋ねたのである。「?」
それに対して出版社は、上々、「!」と。



わたしは「!」を解答、そして「?」を疑問、或いは謎だと思っている。そして「!」を幾つも持っている者よりも、「?」をたくさん抱えて生きている人を好む傾向にある。

「?」は、未知の状態を表している。なんらかの「答え」と呼ばれるものを手にする以前の段階である。では「?」は果たして「無知」と同義だろうか?



わたしが「知」=「知識」とか「知識人」というものを嫌うのは、おそらくはその自信ありげな態度への反発かも知れない。知識とは畢竟確信に他ならず、自信たっぷりで声の大きなものの言うことが「正解」なのだと不貞腐れてみたくなる。

太宰はこう書いている。

私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する。(「桜桃」)
これはそのまま若い頃からのわたしの気持ちでもある。

「知識」とは「謎を解く鍵」、そして「知識人」と呼ばれるものたちは「謎を解く者」なのだろうか?彼らは宇宙や世界や人生の諸問題に対して何から何まで「知って」いるように見える。

はたして「無知」とは克服されるべきものなのだろうか?それは何故?
「?」はすべからく「!」に変わらなければいけないのだろうか?それは何故?
「無知」とは、なにかどうしても必要なものの欠如した状態なのだろうか?
本を読む、或いは学ぶということは、自分の中にある「?」という「オセロの石」を次々と「!」へと捲り返す作業なのだろうか?

わたしは未だに「知識」とは何かを知らない、それは「無知」のなんであるかを知らないのと同じであることに気付く。

重ねて問う。「無知」は罪なりや?

本を読むとは、時に冷酷無慈悲な刑吏の前に身を晒し鞭打たれることではないのか?





2018年2月20日

知的障害者が問う、「知識」とはなにか?

先日投稿した自己紹介で、わたしは、「知的障害と精神障害を持つ引きこもりです」と書いた。知的障害について、計算能力の余りの低さは精神科医を驚かせたが、単にそれだけを以て言っているのではない。

わたしにはそもそも「知識」というものがいったいどういうものなのか、よくわからない。
たとえば「本を読むと知識が得られる」と言われる。ではその「得られた知識」とは如何なるものを指すのだろう?
ほとんど本を読まない自分と、たくさん本を読んだ彼とでは、具体的にどのように違うのだろう?
そもそも絶対にして不変(普遍)の「知識」というものが存在するのだろうか?



ウディー・アレンは映画『マンハッタン』のラストで、人生は生きるに価するか?価するとしたらそれは何に因ってか?と自問し、「価値あるもの」を列挙してゆく。

「・・・ウィリー・メイズ、グルーチョ・マルクス、(モーツァルトの)『ジュピーター交響曲』第二楽章、ルイ・アームストロングの『ポテトヘッド・ブルース』、スウェーデン映画、フローベールの『感情教育』、マーロン・ブランドー・・・フランク・シナトラ・・・セザンヌの素晴らしい『りんごと梨』、サンド・ウォール(?)のクラブサンド(サンドイッチ)・・・トレイシーの顔・・・」

これらは果たして「知識」だろうか?
モーツァルトやルイ・アームストロングやシナトラを聴くのも、
セザンヌの水彩画を見るのも、フローベールを読むのも、
ベルイマンや、ブランドーの映画を観るのも、それらは憂き世に生きる者の愉しみであり慰安であり、「知」ではなく「美」(或いは「五官の快楽」)を求める営みであって、それを「知識」とは呼ばないはずだ。

ローズ・シュナイダーマンは、それを「ブレッド&ローズゼズ」=「パンと薔薇」と呼ぶ。

人生には多分薔薇の園(ローズ・ガーデン)があったほうがいい。けれども、モーツァルトもバッハも、ドストエフスキーも漱石も、レンブラントもルーベンスも無くても人はこころゆたかに生きてゆける。

「自分はしばしば思うた、もし武蔵野の林が楢のたぐいでなく、松か何かであったらきわめて平凡な変化に乏しい色彩いちようなものとなってさまで珍重ちんちょうするに足らないだろうと。
楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨しぐれ私語ささやく。こがらしが叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かのごとく遠く飛び去る。木の葉落ちつくせば、数十里の方域にわたる林が一時に裸体はだかになって、あおずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気がいちだん澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞こえる。自分は十月二十六日の記に、林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視ていしし、黙想すと書いた。「あいびき」にも、自分は座して、四顧して、そして耳を傾けたとある。この耳を傾けて聞くということがどんなに秋の末から冬へかけての、今の武蔵野の心にかなっているだろう。秋ならば林のうちより起こる音、冬ならば林のかなた遠く響く音。
鳥の羽音、さえずる声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。くさむらの蔭、林の奥にすだく虫の音。空車からぐるま荷車の林をめぐり、坂を下り、野路のじを横ぎる響。ひづめで落葉を蹶散けちらす音、

 (略)
自分が一度犬をつれ、近処の林をおとない、切株に腰をかけてほんを読んでいると、突然林の奥で物の落ちたような音がした。足もとにていた犬が耳を立ててきっとそのほうを見つめた。それぎりであった。たぶん栗が落ちたのであろう、」


これは国木田独歩の『武蔵野』に描かれた自然である。

切り株に腰を下ろして本を飛んでいる独歩の姿、それがそのままロシアの風景画のようにうつくしくなつかしい感興を惹き起こす。

自然を感じる心と感覚(=senses)があれば、ディレッタンティズムに陥ることなく人は豊かな生を生きることができる

わたしにはわからない。「知識」とは何か?

「知」を持たないものを、「知」の不足、「知」の欠如を・・・更にいうなら「知への嫌悪」をも含めて「知的障害」と呼ぶのなら、わたしは紛れもなく知的障害者だ。

改めて問う。「知識」とは何か?



















2018年2月19日

匂いガラスとスマートフォン

「匂いガラス」というものをはじめて知った。松山巌さんの、タイトルもそのまま『銀ヤンマ、匂いガラス』というエッセイ集で。
「匂いガラス」という物があるのではなく、正確には当時の先端技術を用いたプラスティックで作られた爆撃機の風防ガラスの破片で、摩擦するとその熱で甘い芳香を発するので「匂いガラス」と呼ばれていたらしい。
被弾した戦闘機は、墜落炎上し、操縦していたパイロット=兵士もおそらくは機と運命を共にしたのだろう。戦後、原っぱでその破片を拾った子供たちが、匂いガラスと呼んで、地面や壁にこすりつけてはあまい香りをかいでいたのだ。

その他にもこのエッセイ集には懐かしい品物がぞろぞろ出てくる。
松山さんは、終戦の年、1945年に生まれた。この本は1995年に戦後50年を様々なモノを通じて振り返るという企画の下に書かれたものだが、1963年、東京オリンピックの前年に生まれたわたしにも懐かしいと思えるものたちが登場する。
「蠟石」「紙芝居」「ベーゴマ」「蚊帳、蠅取り紙」「屋台のおでん」「クレヨン」「謄写版」「東京タワー」・・・
といっても、わたしの個人的な思い出の中で、燦然と光り輝いているのは「メンコ」であり、「泥の団子」であり「秘密基地」だった。

1960年代といえば、敗戦国日本が高度経済成長の緒についたディケイドであり、64年のオリンピックを控えて急ピッチの都市開発が進み、オリンピックを境に東京の様子がガラリと様変わりしてしまったと言われる。けれども、そんな時代に生まれたわたしは当たり前のように自分の生まれた時代と共に子供時代を送った。
「様変わりしたトウキョウ」といっても、まだ空地はあったし、紙芝居屋さんも来ていたし、屋台のおでん屋さんも、プーピーと喇叭を吹く豆腐屋さんもいて、子供たちは広場の土管の中に潜って遊び、メンコや缶蹴りをし、馬跳び(馬乗り)をして遊んでいた。
写真集『ドアノーのパリ』に写っている、50年代のパリの子供たちとさして変わらない風景と、子供たちの日常がそこにあった。
時代はまだ敗戦直後の青空と、原っぱと、麦わら帽子と赤とんぼの時代と繋がっていた。

僕らの町は 川っぷち
煙突だらけの 町なんだ
白い煙突 こんにちは
赤い煙突 さようなら
昼でも夜でも 元気よく
煙を吐いて 歌ってる
そんな僕らの 町なんだ

小学校時代にこんな歌を聴いていた。時々口ずさみもした。
地元が大田区の蒲田で、多摩川を隔てた向こう岸が川崎だったからこんな歌があったのか、学校で、音楽の時間に習った歌だと思うけれど、どういう経緯で覚えた歌だったのか、記憶にない。

そんな時代を大人たちは苦々しい思いで見つめていたのかもしれないが、小学生のわたしは「大気汚染」「公害」と言った言葉とは無縁に子供時代を過ごしていた。

『銀ヤンマ、匂いガラス』の「あとがき」に松山さんは、幸田露伴の一文を引用している。

時代の自惚れというふ奴で、誰でも自己の属してゐる時代をエライものだと思ってゐて、他の時代をば蒙昧のもののやうに信じてゐるが、それは自惚鏡の前の若旦那同然で、実際は何事も当人の思ったやうでも無いものである。「河川」

「誰でも自己の属している時代をエライものだと思っている・・・」この文章を読んで、わたしはふと立ち止まってしまう。東京オリンピックの前年に生まれ、再来年、2度目のオリンピックを控えているこの東京で、わたしの属している時代とは、はたしていつなのだろうかと。

「戦争の間から戦後すぐにかけて空は澄んでいたが、河川もまた澄んでいた。この逆説は少し淋しい気もするが、淀んだような空と濁った水しか今日、眺めることができないとすれば、やはり鼻白む。」

と松山さんは続ける。

さきほどの、わたしが小学校時代に覚えた歌には二番があって、その後半は、

父さん母さん 帰るまで
煙突の林で 鬼ごっこ
そんな僕らの 町なんだ

そんな時代は確かにわたしが属していた時代だった。
けれども、松山さんが戦後50年経った時代を眺めてふっと鼻白んだように、
わたしもまた、オリンピックから54年を閲した今、自分の時代はとうに過ぎ去ってしまっているのだという思いの中で立ち止まっている。
子供たちは今でも最先端技術を用いたプラスティックを手に持っている。けれどもそれはいくらこすっても、もう当時の甘い匂いはしない。














2018年2月18日

牙をむくアメリカの民主主義

「北朝鮮、韓国そして「在日」の問題をめぐる反左翼あるいは保守を自称する人々の議論の仕方をわたしは好まない。というのも、彼らの論法がどこか底が抜けているからだ。北朝鮮の「拉致」についていうと、アメリカの(原爆投下をはじめとする)「空襲」によって九十万の(兵士ではなく)一般市民が大量虐殺されたことに一言の抗議もしてこなかったのが戦後日本である。そんな国家がどんな顔(かんばせ)あって、何十人か何百人かの「拉致」にたいして非をならすことができるのか。ソ連によるシベリア抑留という名の(「洗脳」のことを含む)捕虜虐待とそれによる六万人の大量虐殺にしても、戦後日本は「餓えて凍えた兵隊さんはかわいそう」としか言ってこなかった。そんな風に国家の体裁を保つことすら忘れてきた「似非国家」が戦後日本である。その自覚のない北朝鮮批判にはついていけないのだ。

韓国が「靖国と教科書」について内政干渉してくることに対する自称保守の反発にも、同じ疑念を覚える。アメリカは、外交のみならず内政にかんしても、我が国に休みなく干渉し続けてきた。それを甘受するのみならず、対米屈従を「日米同盟」と呼び替えて、アメリカの属国になることを喜んできた戦後日本が、いかなる面子を張って、韓国や中国に対抗しようというのか。おのれのメンツがとうに破れていることについて、自称保守は一言もない。」

- 西部邁「在日「関勇」よ、あの節は本当に有り難かった」『生と死、その非凡なる平凡』(2015年)より

「右派・保守」と呼ばれる人物の、上記のような(わたしからみれば)至極まっとうな見解には賛成だが、一方で、日本の核武装論や中曽根(元首相)支持の点で、どうしても西部とは相容れない部分が大きい。またアメリカこそ諸悪の根源と言わんばかりの論調にも同調できない。
日米国家間のやり取りがどうあろうと、アメリカは映画や音楽、また文学や詩、そして芸術の面で、日本には到底太刀打ちできないほどの豊かな文化を育んできた。そして何よりも、アメリカ国民は、自国政府のやり方に唯々諾々と従ってはいない。時には数十万、百万単位でのデモを繰り広げ「必要とあらば」彼らは暴徒とも化す。

18世紀、アメリカ建国時代の思想家トマス・ペインは次のように言っている。

" The Duty of a True Patriot is to Protect his Country from it's Government "


「真の愛国者は、国をその政府から守らなければならない」

アメリカにはいまだその思想が脈々と受け継がれているように思える。
仮に日本人と日本政府が、一部は緩やかであれ、ほぼ等式で結ばれているとしても、「アメリカ政府」イコール「アメリカ国民」ではない。その融和・・・言葉を換えれば「狎れ合い」の所作が、日本を日本たらしめているように、その分離・独立の仕方こそ、「アメリカ」を「アメリカ」たらしめている所以である。




「信仰」或いは「趣味の問題」としての歴史

プラグマティズムの哲学者、ウィリアム・ジェイムスは、
「神を信じることによってその人が救われるのなら(その人にとって)神は確かに実在する」と言っています。

同じように「歴史」とは、わたしにとっては「宗教」乃至「信仰」と同義です。
つまり歴史的事実というものは存在しない。
ニーチェの言葉に従えば、「事実というものはない。ただ解釈だけがある」のだと思っています。

極論すれば、南京大虐殺があったと思う人には、それはあったのだし、
ホロコーストはデッチアゲだという人には、ユダヤ人虐殺はなかったのだと思います。
広島も、長崎も、沖縄戦も同様です。歴史に「客観的事実」というものは存在せず、ただ主観的事実のみが存在します。
「趣味の問題」として。

ホロコーストはなかったというネオナチの人間に「あったのだ」と思わせるには強制的な「洗脳」による以外方法はありません。

わたしは右も左も信じていませんし、選挙にも行きません。
指示する政党も、信頼できる政治家も存在しないからです。

けれども個人的には、60年代後半から70年代にかけての反戦(非戦)・現在の形での9条死守の洗脳(洗礼)を自ら選択しました。これはわたしの「信仰」です。

慰安婦強制連行があったのか?
南京大虐殺があったのか?
関東大震災時に朝鮮人の虐殺があったのか?

わたしは「事実」は知りませんし、過去は永遠に知り得ないことだと思います。
ただわたしは「あった」という「信仰」を棄てません。

繰り返しますが、わたしの歴史観は、「趣味」に基づくわたしの信仰に他なりません。


2018年2月17日

みなさん、よい週末を。


わたしの好きな曲を送ります

ジェームス・テイラーの「キャロライナ・イン・マイ・マインド」

デクスター・ゴードンの「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」

James Taylor - Carolina In My Mind 


Dexter Gordon - I'm a Fool To Want You


2018年2月15日

言葉そして生と死

かつて辺見庸は、「わたしが読みたくないものは「闘病記」と「人生論」だ」と言った。

人は自分の個有の生を生きるしかない。それはあくまで一回限りの個的(孤的)なもので、他人と共有し得るものではないし、一般化して「教訓」として活かすことができるものでもない。



「病人介護のことも含めて家事に精出していると、何の変哲もないのがエコジョッブ(家事)だとつくづく感じ入る。たとえそれが人間の死というものにじかにかかわる作業となろうとも、死もまた生の必然の結末なのであってみれば、そこに騒ぎ立てるべき変哲の一抹も見いだせない。そう見るほかないのである。驚きに価するのは、むしろかくも変哲の少ない活動に、人は、とくに多くの女性が、一心不乱に取り組むことができたのはなぜなのか、ということのほうだと思われる。

昔、雄猫を飼っていた折、「こいつは、なぜ飽きもせずに、来る日も来る日も飯を喰って散歩をし、欠伸を繰り返して昼寝を楽しむ」ことができるのかとしばし考え、「この動物には生の活力が漲り溢れているからなのだ」、「人間の雄が新奇なものに興奮しているのは生きるエネルギーが涸渇しているせいなのだ」という答えに辿り着いた。家事をひたすらにやりつづける人間の雌たる女性は、ひょっとして、異常な活力の持ち主なのではないか。それにくらべて男性には、破壊的創造に過ぎぬイノベーションを創造的破壊と呼んで自画自賛しつつ、ノーヴェルティ(新奇)のイン(中)に淫する者が多い。」
ー 西部邁『生と死、その非凡なる平凡』(2015年)

西部邁の著書は、今回初めて手にとった。そのきっかけは、こういってよければ、彼の「美しい自死」であった。
わたしは己の人生を、自ら終(しま)う人に惹かれるところがある。

文化勲章をもらって天寿を全うする人たちよりも、人知れず自らのいのちを水の中に沈めてこの世から消え去るという生き方が、動物の一種に過ぎない人間としての身仕舞いという意味で、遥かに上等なもののように思われるのだ。

もうひとつ、わたしにとって大事なことは、言葉が通じるということだ。
思想・信条が必ずしも一致しなくとも、言葉が通じるということはあるし、逆に、反戦・平和・改憲反対・脱原発と叫ぶ人の多くと、屡々わたしは「言葉が通じない」と感じている。

わたしは言葉に関しては極端な保守主義を持っている。思想の内容以前に「形式」を重視する傾向があるのかもしれない。
きれいな(或いはまっとうな)言葉を話せる人であるなら、極右であっても、テロリストであっても、耳を傾けるに価すると思っている。人柄はなによりも端的に言葉に現れると思っている。

シェイクスピアに極悪人は数多登場するけれども、彼らの独白を聴いていると自然に悪感情が氷解してゆくのを感じる。殺人すらも、「言葉」により「浄化」され得ると・・・わたしがいわゆる「リベラル」と呼ばれる一群の人々と、どうしても肌が合わないと感じてしまうのは、その十年一日の如き紋切型のパロール(話し方)エクリチュール(書き方)のゆえだ。

「自分が直面する状況に対して実践的にかかわっていくなかでのみ思想が具体化されるのであり [・・・]
大仰と聞こえようが、「家人の介護をすることすらできずに思想だの哲学だの、片腹痛い」と(もう一人の)自分が考えているのである[・・・]
「一人の男と一人の女が生活を共にし、あまつさえ子供まで作った」というのはまるでお伽噺のような不思議な出来事であり、そのお伽噺の起承転結に全力で関わるのでなければ、そんな人間の喋ったり書いたりする言葉のすべてが重力を失ってシャラクサイものに変じ、単なる空気の振動もしくはインクの染みに化していくからだ・・・」
(同上)

思想は、それを下支えする日々の生活「その非凡なる平凡」或いは「平凡なる非凡」によって醸成されていなければならず、汗をかき、歯を食いしばりながらの日常という底流のない思想は羽毛のように軽いに違いない。
やはりわたしはその人がひとりの人間としてどのように振る舞ってきたかということを考えずにはいられない。
上記の引用に見られるように、西部は、身近な・平凡な実生活に参加することこそが、真の思想の土壌になると考えている。政治を語り哲学を論ずる前に、またはその大前提としての地道な家庭生活。「隗よりはじめよ」と。

・・・いや、結局のところ、わたしは彼の入水自殺というものの思想性に、その生の美学に、心打たれているだけなのかもしれない。そして同時に、およそ屈託というものの感じられない笑顔で、反戦や護憲を唱えている者たちの「微笑」が強いてくる屈託が、わたしの心の奥底のアンダーカレントとして滔々と流れているのを感じる。

「この世界に絶望する人がひとりでも増えること、それが希望です・・・」と語ったその人の、この世への訣別、その放棄・・・その一事に(言葉・思想を越えたところで)強く共鳴しているのかもしれない。

言葉が通じ合うものがいなくなったと感じた時、彼はこの世から去った。
わたしもその姿に容易に自らの遠からぬ未来を重ねて見ることができる。






2018年2月13日

「左右を弁別せず」 中島貞夫『日本暗殺秘録』

「本書(『抵抗論・国家からの自由へ』)の上梓により、『永遠の不服従のために』にはじまる論考・エッセイ集は『いま抗暴のときに』をはさみ、3冊目となった。タイトルの ”つよさ” からか、これらを” 抵抗3部作 ”と呼ぶ向きももあるようだが、著者にはそうした大仰な意識はまったくない。
                                                     (略)
「不服従」「抵抗「抗暴」の字面は、いわれてみればたしかに穏やかでない。しかし穏当を著しく欠くのはむしろ世界の情勢のほうなのだというのが、私の言い分である。
「不服従」や「抵抗」といった、いささか古式でそれ自体の正当性をいいはるたぐいの言葉は、よくよく考えると私の好みでもない。アグレッシヴなこれらの言葉と人の内面の間には、しばしば到底埋めがたいほど深い溝があるからである。
それなのに敢えてこれらのタイトルを冠したわけは、決して私の衒いや気負いではなく、おそらく喫緊の状況がそうさせているのだ。と、申し上げておく。
世界は今、「不服従」「抗暴」「抵抗」を” テロ ”という名辞で暴力的に一括して完全に消去しようという流れにあるように見える。わたしの考えでは、しかし、「不服従」や「抗暴」や「抵抗」がさほどまでに忌み嫌われているのとまったく同時に、これほど必要とされ、求められている時代もかつてないのである。」
ー 辺見庸 『抵抗論・国家からの自由へ』(2004年)あとがき


昨日の日記で、わたしは「シンフェーン」というゲール語の意味が「我らのみ」であると書いた。そしてわたしは「我ら」という「等」を持たない孤絶した「我のみ」であると。昨夜観た映画で、主演の千葉真一演じる血盟団員「小沼正」は同志(村井国男)に向かって。「俺、わかったよ。「革命」ってのは「俺たち」でやるんじゃないんだな。「俺」がやるんだ・・・」

監督中島貞夫、脚本笠原和夫の1969年作品『日本暗殺秘録』は、先日かわぐちかいじの『テロルの系譜』を読んだ折りに知り、是非観たいと思っていた。
若山富三郎、片岡千恵蔵、高倉健、鶴田浩二、菅原文太、田宮二郎、里見浩太郎、藤純子といったオールスター・キャスト。それだけでエンターテインメントとして第一級の作品だが、微瑕を言えば、冒頭、吹雪舞う桜田門外の殺陣のシーンで、黒澤ー三船や、今井正ー中村錦之助ほどの凄まじいまでの迫力が感じられなかったことだろうか。

タイトルの通り、この映画は日本の暗殺ーテロルの歴史をオムニバス形式で描いている。
143分。登場する暗殺事件は、 幕末桜田門外の変から昭和11年の2.26事件まで九つ。140分で九つの暗殺事件を描くなら、ひとつのエピソードあたり15分ほどになってしまって、事件の背景などは描きようもないのではないかと思っていたが、この映画のメインは、昭和7年に起こった血盟団事件で、次に2.26事件と、ギロチン社事件に多少の時間をかけているが、その他は、単に何時何処で誰が誰によって殺されたというシーンのみである。だったら初めから井上日召と血盟団事件の作品にすればいいのではと思うが、やはり、幕末ー明治ー大正、そして戦前と、絶えることなくつづく権力の支配・圧迫と被支配・屈従の「歴史」が続いていることを示唆する必要があったのだろう。
暗殺の前にも暗殺があり、テロルの後にもテロルがある。その変わらぬ国の風景の背後に何が潜んでいるのかを暗示する必要があった。

興味深かったのは、「ギロチン社」の古田大次郎も、血盟団の小沼正も、また2.26事件の磯部浅一も、異口同音に「革命」というタームを用いること。大杉栄虐殺の復讐に起ち上がったギロチン社の面々は、言うまでもなくアナキストであり、血盟団は右翼と言っていいだろう。
作品が作られた当時、「政治の季節」と言われた60年代後半~70年代にかけての時代の精神というものも影響しているのだろうが、そもそも竹中労が指摘するように、「左右を弁別せざる」思想にわたしは共鳴する。
戦いは左右の水平上の闘いではなく、上下の垂直方向の戦いであるべきなのだ。

政治的なスタンスをいうなら、わたしは勿論右ではないが、だからといって、左派かというとそうでもないような気がする。そもそも現在のこの国で、言葉の正確な意味での「右翼・保守」或いは「左翼・革新」というものが如何なるものであるのかがよくわからない。

戦後、俳優山村聰は映画『蟹工船』(1953年)を監督し、また国鉄下山総裁の轢死事件に材を取った、井上靖原作の映画『黒い潮』を撮っている。同時期、佐分利信は、2.26事件に取材した『叛乱』(1954年)の監督をしている。これこそ正に「左右を弁別せざる」時代背景ではなかったろうか。

わたしには「右」も「左」もないように思える。ただ、上(かみ)と下(しも)、富裕の貧困の対立があるのみだと。

映画は

「そして現代
 暗殺を超える思想とは何か?」

と問いかけている。
けれどもそもそも「暗殺」或いは「テロル」とは「思想」だろうか?
転覆に転覆を重ねても、またいかなる体制であろうとも、国家がある限り権力があり、権力のあるところには支配がある。映画の中で田宮二郎の言う「我々の革命は、失敗はもとより、成功もまた死のはずだ。生きて二階級特進など、貴様ら、本気で革命をやろうと思っておるのか!・・・連夜紅灯の下に酒を飲み、女を抱き、自己の栄達のために革新を語る。たとえ成功してもそれでは単なる政権の交代、自分たちが権力を握るためのさもしい権力抗争に過ぎんではないか!」という心情に心打たれる。

狂気(兇器)の沙汰と言われ「思想以前」と言われても、それが故に、わたしはそこに人間性の哀しき美の発露を見る。


働けば血を吐き働かなければ喰えなくなる現在(いま)の俺の態(ざま)を見てくれ

喰うために全力をあげてなお足らぬこの世になんの進歩があろう

ー 渡辺順三 (1929年)







2018年2月12日

ブログ紹介及び自己紹介

はじめまして。

こちらのブログはもともと' Myspace 'というSNSが無くなった後に、引き続きアートを投稿する場所として始めました。Clock Without Hands がそのブログです。
当時Myspaceの友達は全て外国人でした。勿論わたし同様、英語があまり話せない国の人も多くいました。
その後上記ブログからTumblrに移り今に至っています。

英語が通じない、或いは言葉が通じなくても、アート(絵画・写真)は言語の垣根を越えて人々との繋がりをもたらします。' Clock Without Hands ' は、便宜的に英語を使用しています。

Nostalgic Lightのプロフィールが英語なのは、わたしの知識の無さのため、Bloggerで新しいアカウントの取得が出来ず、Clock Without Handsのアカウント上で新たなブログを作ったため、「別館」のように見做され、同一の(元の)プロフィールが使用されているという事情です。

Clock Without Hands は、細々ながらいまだに世界中から見に来てくれる人々がいるので、そのことを重視し、プロフィールの変更は行っていません。



さて、わたしは東京在住の男性、です。1963年東京都大田区生まれ。
精神・知的障害を持つ引きこもりです。

このブログに書かれていることは、それが本についてであれ、映画や音楽の話題であれ、すべては、ひとりの孤独な精神障害者、引きこもりの内面の記録です。
多くのブログのように、記事の内容ごとにカテゴリーに分類することをしないのは、わたしのものぐさのせいと言うよりも、そのような気持ちに依るものです。

このブログを読んで(反感なり共感なり)興味を持たれた方は、こちらのブログ が日本語で書かれたわたしのメインのブログですので、そちらをお読みください。
(ここにも相当数の過去の記事がありますが、それらは主に上記ブログのバックアップの意味で転載したものです。)

お気づきのように、'Clock Without Hands' は「針のない時計」
'a man with a past' は「過去と共に生きる男」
共に「時の静止」を意味し、現代という時代に適応できない=したくない、いのちの在り様を表現したタイトルです。

IRA、アイリッシュ共和軍の公然組織の政党名は「シンフェーン」と言います。
これはゲール語で「我らのみ」という意味です。(『刑事コロンボ』「策謀の結末」をご覧になった方はご存知でしょう。)
しかしわたしは「我ら」のみ、ではなく「我」のみで生き、またこのブログを書いています・・・というとなにやら悲壮な覚悟の下に綴られた、大層なもののように思われてしまうかもしれませんが、所詮は泡沫(うたかた)の如きひとりごとです。

わたしは買い被られることがなによりも苦手です。
気軽な気持ちでわたしの内面と向き合っていただければなによりです。

みなといっしょに安息をえようとしてはならない。
みなとともに癒されてもならない。
他とともに陶酔するな。
他とともに変質するな。
他とともに変色するな。
唱和するな。号令に応じるな。気息を世界に合わせるな。記憶を彼らに重ねるな。リズムを合わせるな。声調を合わせるな。語法を合わせるな。
世界といっしょに目覚めるな。
世界とともに眠るな。
世界とともに憂いてはならない。
ともに慈しんでもならない。
世界と心をひとつにしてはならない。
世界と手をつないではならない。
ー 辺見庸『記憶と沈黙』より

Takeo (poboh)





2018年2月10日

思想のない街 追記(井上章一 京都論)

今日の新聞に、国際日本文化研究所の井上章一氏のインタビューが載っていた。
海外の都市と「古(いにしえ)の都」と言われる京都との比較が興味深かった。

「京都の中心市街は年々、観光地としての人気が高まっています。今の好況をどう感じていますか?」

井上:「なんでこんな現代的な街にくるんやろと思います。例えばイタリアのフィレンツェ市役所は七百年前に建てられた。日本でいえば鎌倉時代の建物を現役で使っている。ルネサンス期より前に建てられた住宅もあちらこちらにありますわ。フィレンツェの人は威張っていて、ローマを見下している。京都にも近い雰囲気がありますよね。
でもぼくはこれだけの歴史を守っているフィレンツェの人には威張る権利があると思います。京都の街中はどうでしょう。どうみてもマンションが立ち並ぶ現代都市ですよ。
京都市は「歴史都市」と自称してフィレンツェと姉妹都市提携をしていますが、申し訳ない気持ちになります。」

「京都市も古い街並みを維持しようと、建築物の高さなどに規制を設けてはいますが」

井上:「欧州の街に比べれば規制でもなんでもないです。二千十六年の地震で多くの建物が倒壊したイタリアのアマトリーチェは、耐震補強しようなんて思わず、前と同じようにレンガ造りの同じ建物を造り直しています。安全性よりも歴史への執着が勝つ。それを見て私はあたまが下がります。
京都の河原町通りを見てください。周囲の空気を読んでいる建物はほとんどありません。パリのオペラ座の周りは全部の建物が同じように統制されているんです。よく日本人は自己主張をせず、欧州の人は我が強いというが建築に関しては真逆。歴史都市京都の方がエゴイズムの塊に映ります。京都は戦中にほとんど空襲被害を受けなかったのにもかかわらず、現代都市の道を選んだわけです」



井上章一も松山巌同様、大学で建築を学んだ。

繰り返し、ヨーロッパのすべてがこのような事情であるとは思えない。少なくとも、フェイスブックで、ヨーロッパの友達がアップするパリやローマの写真を見る限り、東京と見分けがつかない。ウディ―・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』は、You Tubeでオープニングを見たが、セーヌ河畔やノートルダム界隈もさほど魅力的には映らなかった。(1970年代に作られたモノクロ映画『マンハッタン』のオープニングは、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」をバックに、マンハッタンの様々なシーンが写し出され、見事な美しさを描き出していた)ーー わたしは現在のパリを愛するには、あまりにもドアノーや、ブラッサイ、ウィリー・ロニス、そしてイジスのパリに、1930~50年代の、「モノクロームの欧羅巴」に魅せられている。(或いは「ヌーヴェルバーグのパリ」に?)

わたしの母方の代々の墓は京都市上京区にあるが、母は京都を「西の東京」と呼んでいる。
わたしも20年ほど前に友人と京都に旅行に行ったが、特に清水寺周辺を歩いた時に、全く歴史の町、古都というにおいがなく、肩透かしを食ったような感じを受けた。

「思想のない街」とはなにも東京に限られたことではない。その無思想は北の涯から南の果てまで列島全土を覆い尽くしている。


ー追記ー

井上章一のインタビュー中の「真逆」「周囲の空気を読む」という表現には抵抗を感じながら引き写した。「国際日本文化研究所教授」であるなら、もう少し日本語表現にも濃やかな心遣いをしてもらいたいと思う。
また、アマトリーチェ(イタリア)は安全性よりも歴史への愛着が勝っていると書いているが、では日本はなにより安全を優先させているかと言うとそうではなく、イタリアは2011年の東日本大震災以降、即座に脱原発へと政策を切り替えた。逆に日本は震災を奇貨として再開発の契機としたように思えてならない・・・


Robert Doisneau, La Sonnette, 1934
「ドアベル」(パリ 1934年) ロベール・ドアノー

2018年2月9日

お化け屋敷のない風景

フォン・ヤイゼル神父は私が日本に帰って数年後に亡くなったが、たとえば電車の窓から雑然とした町並みを眺めていて、よくひびく彼の声が東京の空にとどろきわたるような気のすることがある。こんな思想のない街に暮らしていたら、きみたちはこれっぽっちの人間になってしまうぞ。

これは須賀敦子が松山巌の依頼に応じて、彼の著作『百年の棲家』の解説として認めた一文の結びである。

神父は須賀たち学生に、「街が人を創る」ということを、よく覚えておくようにと伝えた。

数日前の新聞に、ニューヨークで生まれた日本文学研究者のロバート・キャンベル氏のコラムが掲載されていて、それが強く印象に残った。

「故郷で古い仲間に会ってきたが街が変わり過ぎて記憶がよみがえらない。東京の友達から時々そういう話を聞くことがある。わたしも去年の夏、生まれ故郷のニューヨーク市ブロンクス区を三十五年ぶりに歩いてみた。友だちとは逆に、街はほとんど変わっていなかったが、古い仲間はもう一人としていない。
 十九世紀末からユダヤ系、イタリア系、アイルランド系とさまざまな移民集団ができた。アイルランド系移民に属する祖父母も地縁血縁をたよってブロンクスで家庭を作り、人生を全うした。十三歳まで僕が暮らした五階建て鉄骨タイル張りの戦前のアパートも、昔と寸分たがわず建っていた。長い階段を紙袋二個分の食料を抱えて上ってくる祖母の息遣いが瞬時によみがえる。アパートの玄関脇にあった祖父のクローゼットの甘い匂いも記憶から漂ってきた。
 今の住人は、その後入ってきたカリブ海や中南米の人か、戦中、南部から移住してきたアフリカ系労働者の子孫である。相変わらずお金を持っていそうな人は、誰もいない。
 アイルランド系労働者移民の浄財で建てられ、母も僕も通った小さな教会とその付属小学校は、窓枠に塗った赤いペンキまで当時と同じだったけれど、扉の貼り紙はスペイン語で書かれていた。道行く人も、欧州なまりとは違う英語をしゃべっている。
 初めて遊んだ公園に行ってみた。遊具は変わったが、公園で遊ぶ子供たちの笑い声は僕らのころと変わらない。
ここで育ち、やがて去れる人から去ってゆく、この街特有の影と力強さを感じた」

おそらくニューヨークでも、またヨーロッパですら、すべてが変わらず昔のままということはないだろう。これはブロンクスという貧しい人たちの住む下町ならではの事情かも知れない。けれども、50年以上、幸い震災にも戦災にも見舞われずに過ごしてきて、なお「故郷喪失者」であるわたしにとって、「ここも、あそこも昔のままだ」といえる風景を持てるということはなんという幸運であろうという思いを強くする。

東京ははたして「思想のない街」だろうか?そうではなく、寧ろ「誤った思想の下に創られた」都市ではないのか。「思想」を「美」と呼び換えてもいい。美のない街に人は生きることはできない。そして東京は戦後の高度成長期以降、「美」というものをはき違えて現在に至っている。いやそもそも人間にとって美が欠くべからざる生命の根源であるという思想さえ抜け落ちているのではないだろうか。

わたしはこの街を「穢土」だと感じている。何故なら、この都市はあたかも地上の「浄土」を創り上げようとしてきたかに思えるからだ。おそらく「浄土」には一切の穢れたものや、汚れや、闇、朽ちゆくもの、滅びゆくものは存在しないだろう。不壊、不朽、そして不老・不死こそが「浄土」の要諦であるとしたら・・・

一方で「変わらぬ風景」を求め、同時に「滅びゆくものこそ美である」というのは明らかに矛盾しているのではないかと言われるかもしれない。
しかしそれは人間一代の視点で捉えているからこそ生じる「矛盾」である。数百年、数世紀、数世代の単位で考えれば、どのような建物もいずれは朽ち、滅びる。「発展・開発」の荒波から救い出された、ヴァージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』とても例外ではない。
日本人は記憶の継承というものをなおざりにしてきた。それが目に見える形として具現化されているのがこの都市の姿である。


うしろを振りむくと
親である
親の後ろがその親である
その親のうしろがまたその親であるというように親の親の親ばっかりが
むかしの奥へとつづいている
まえを見ると
まえは子である
子のまえはその子である
その子のそのまたまえはそのまた子の子であるというように
子の子の子の子ばっかりが
空の彼方へ消え入るように
未来の涯へとつづいている
こんな光景のなかに
紙のバトンが落ちている
血に染まった地球が落ちている
ー山之口獏 「喪のある風景」

地上のすべての家や建物が百年の棲家ではなく、「かつ消えかつ結びて久しく留まりたるためし」のない「泡沫(うたかた)」の如きものであるならば、わたしたちはいつ「喪」の記憶に参するのだろう?
親と子、そして子供の子供の記憶は全て細切れに分断・切断され、「喪」の継承は行われない。
土地と家の記憶の寸断は、同時に人々の生活の記憶の断絶でもある。記憶は街の姿と共にある。

「死の家とは、ものが死んだ家ではない。むしろ、ひとつ一つのものが記憶を甦らせ、うごめいて住む人に語りかける。(高村)光太郎の目にはかつて自慢した、高い屋根や七つの窓や欅の木の向こうに妻をはじめ、死者の姿が映っている。
おそらく多くの方は、このような家に住みたいとは思わないだろう。しかし生きている家とはこのようなものだ。ふと振り返れば、重い記憶が壁や天井、窓や床に染みついている。建築家はこんな家を設計することはできない。作るのは真新しいピカピカの家である。どれほど生き生きと明るい表情を見せても、実は生きた記憶は消されている。

建築家、建売業者、建材メーカー、いずれも家と什器の新しさを強調して売りつけ、客もそれを求める。つまるところなにを買うかといえば、絵のような汚れなき「マイ・ラスト・ホーム」。むろんこんな文句は宣伝には使えない。本当のところは客はあきらめている。そうでなければ、あれほどチャチな住まいに満足しないだろう、どうせ息子か娘の代になれば取り壊される。どこの家も同じ、誰も同じ、それがせめてものなぐさめなのだ。均質な死に場所こそが新築される家の隠し味なのである」-松山巌「詩のなかの住まい、詩とその家々 6」(初出 1993年)








2018年2月7日

「言葉」への懐疑

昨年暮れに、2007年から使っている「楽天ブログ」から、こちらのブログに移ってきた。画面に表示される広告が鬱陶しいというのがその理由であることは、あちらのブログにも書いた。10年間続けてきた愛着のあるブログではあるけれど、今は広告は視たくない。
広告のないブログに移ったからといって、このままどこまでもブログを継続してゆけるとは思えない。メインのブログでも、1年12カ月、すべての月に何らかの投稿をしたのは昨年が初めてだった。継続という点では、2011年、それまで利用していたSNSの廃止(?)に伴ってはじめたTumblrは、逆に昨年まで、すべての月に投稿をしている。
Tumblrも「ブログ」ではあるけれど、「楽天ブログ」やこことなにが違うのかと言うと、Tumblrは絵や写真を投稿するサイトで、こちらは言葉を使うサイトであるということだ。

わたしには「言葉」に対して、根深い懐疑の気持ちがある。
それがインターネットを始めて以降のものかと考えてみると、そうとも言えないようだ。大学時代、世間では「ニュー・アカデミズム」と呼ばれたポスト・モダンの書籍がもてはやされていた。その頃から、わたしの中の「知」への反発感情が醸成されていたように思う。

知的障害があるせいか、「言葉」とりわけ「アカデミック」で「知的」で「訳知り」で「賢しら」な言説への抵抗は大きかった。
同根の理由から、わたしは「書籍」というものに対しても深い愛着を抱くことはなかった。
「本好き」「読書好き」と呼ばれる人たちへの屈折した反感があった。

広くとらえれば、日本社会というものへの嫌悪感があり、それは当然、日本人の使う言葉への忌避感へと流れ込んでゆく・・・

「言葉」への根源的な信頼が希薄なので、主に言葉を紡ぐことによって成り立つブログには、アートを投稿するサイトに比べて、どこか一歩退いているところがある。
無邪気に言葉を信用できない。「知」よりも「情」を優先させてしまう。
「説明」よりも「直感」を好む。

尾崎放哉の句に勝る風景画は存在しないと思っているが、それは俳句、特に自由律俳句がまだ「言葉」以前の直截な感情の発露に近いからだ。「言葉」が「説明」であるなら、それは寧ろ「感嘆符」に似ている。



松山巌のエッセイ集『手の孤独、手の力』(2001年)に、常日頃わたしが感じているようなことが引用されていたので、それを引いてみる。

「電信電話が出来、蓄音機活動写真が出来、自動車やモートルボートや空中船や飛行機が出来、水雷艇やターバイン式の快速な軍艦や壮麗な飛脚船やが出来、宏大精美な住宅や劇場が出来、瓦斯や電燈が吾人の夜を飾り、精良珍稀の飲食物が吾人の胃を充たし、細軟軽暖の衣服が吾人の身を包む、其等のすべての事の発達進歩が即ち世界の真の文明であるならば、文明ということは畢竟吾人の五官に眼まぐるしい衝動を与えて、而して吾人の真の生命の油を無益に消費せしむるに適したもので、吾人より真の生活の意義を断片的に奪い去り盗み去り、乃至は真の生活を不断の小刺激によって麻痺せしめ、其の本来の精神面目を発揮展開するに暇あらずして、外界との応酬に忙殺せられて死に至らしむるのみであると云いたい。」
ー 幸田露伴「簡易の好風景」『修省論』(大正二年)

松山は引き続きこの一文より以下の箇所を引く

「物質界の進歩は敢えて非とすべきものではない。しかし形而下の進歩が跛脚者の一脚のみ長いように進歩して、そして形而上の者がこれがために累せらられるような状態に陥る場合には、一部に於いては不可無きも、全体に於いては不利を致している。」

要するに形而下=物質世界の進歩が、形而上=精神・感覚・感情・情緒等、人間の心身、生体本来の在り方を凌駕し、それと著しく乖離してしまうというアンバランスを来したときに、それは人間社会にとって不利益を齎すものになると露伴は言っている。

最後に松山はこのように締めくくる

「人間はなにかの折にぎりぎりの立場に立たされる。その時人は試される。あわてても仕方ない。その急場を堪えるには、日頃から「実に参する」他はない。掃除を含め、家事は日常の些末な仕事である。しかしだからこそ、人の身振りや立ち居ふるまいを決定づける。ぎりぎりの立場に立たされたときこそ、その些末な日常が活きる。露伴は、こう娘文に笑いを含ませて伝えたのだ」「掃除の仕方」(初出 1989年)

「虚」の世界は人間を救わないとわたしも思う。また上の引用でも指摘されているように、虚の世界の肥大は結局人間存在を相対的に卑小化する。

更に『手の孤独、手の力』の他の章では、柳田國男の以下のような言葉が引用されている

「言葉さえあれば、人生のすべての要は足といふ過信は行き渡り、人は一般に口達者になった。もとは百語と続けた話を、一生涯せずに終わった人間が、総国民の九割以上も居て、今日謂ふ所とは丸で程度を異にして居た。それに比べると当世は全部がおしゃべりと謂ってもよいのである」「涕泣史談」

「柳田はかつては眼の色や顔の動きで気持ちを表現したし、男ももっと泣いたといい、「語は本来なくても済んだのである」と指摘する」「においと気と笑いの衰微」(初出 1989年)

結局わたしは現代の文明が(精神を含めた)人間の生体を著しく損なっているという露伴に共鳴し、
「かつては眼の色や顔の表情=身体で気持ちを表せていた」ので「敢えて言葉は必要なかった」という柳田の論に賛同するのである。
即ち過大評価されている「言葉」とそれを弄ぶマテリアリズムへの嫌悪、そしてそれらに浸蝕されている人間精神への嗟嘆である。

ああ、それにしても横38センチ×縦22センチのパソコンの画面でさえこの文字の読みにくさ!言葉への懐疑などといった形而上の問題以前に、形而下の肉体が、目がついてゆけない・・・














2018年2月6日

廃墟について

私は石の柱……崩れた家の 台座を踏んで
自らの重みを ささえるきりの
私は一本の石の柱だーーー乾いた……風とも 鳥とも かかはりなく
私は 立っている
自らのかげが地に
投げる時間に見入りながら
ー 立原道造 「石柱の歌」

松山巌は、廃墟を語る一文の中で道造の詩を引き「この詩は私たちにあらゆる事柄から解き放たれた時間を夢想させる。一瞬かもしれぬし、 永遠かも知れぬ凍結した時間、その美しい夢へと廃墟の一本の柱は私たちを誘う。」『手の孤独、手の力』
と綴る。

けれどもこの詩を「廃墟」の文脈から切り離して単独に読んだ時、わたしはすぐに
ジョン・シンガー・サージェントの「アトラス」の絵を思い出した。

Atlas and the Hesperides, 1925, John Singer Sargent

ゼウスとの戦いに敗れ、天空を支える罰を科せられたアトラスは、シジフォス同様に永遠の苦痛に耐えることを運命付けられている。

同時に、この詩がわたしにもたらした印象は、己(の生)を支え、維持することのみを目的とする存在となった、一本の柱の悲しみでもあった。
「石の柱」が支えているのは、他ならぬ自分自身のいのちである。
「彼」は身じろぎすることもままならず、「風とも 鳥とも かかはりなく」ただじっと支え続けることに耐えている。

わたしは自分の「生」を容易にこの詩に、この絵に重ね合わせることができる。
「風とも 鳥とも かかはりなく」ただじっと動かずにいることを余儀なくされているいのちの在り方に。

まだみどりも花も見ることができ
まだ蓮の花咲く池のほとりをめぐり
野鳥の森の朝のさわやかさを
味えることのふしぎさよ
ー 神谷美恵子

自らの生をただ維持するためだけに、不動の柱として生きているわたしが、風や鳥や、樹々や草花とふたたび心を通い合わせることのできる日が訪れるのだろうか・・・



「廃墟の美しさは「風とも 鳥とも 花とも かかはり」のない久遠の美しさだ。建築家は多かれ少なかれ、この美学に魅了される。当然である。自らが設計した建築が、たとえ機能を失い、建築としての生命を失っても、周囲がどれほど変わろうとも超然として残ることは建築家の夢に違いないからだ」と松山は続ける

廃墟を廃墟たらしめているのは、建築としての本来の機能を失ってしまったからだが、それでもわたしは下の絵にあるように、「超然たらざる」廃墟と人の生活が交差する情景が好きだ。

A Hermit Praying in the Ruins of a Roman Temple, ca 1760, Hubert Robert. French (1733 - 1808)


これはユベール・ロベールの描いた「ローマの寺院の廃墟で祈りを捧げる隠者」。
廃墟は造られた当初の機能は失われても、尚このように人々の生活の中に溶け込んでゆく。

「廃墟というものがいまだ存在する。炭鉱やさびれた漁港で、石炭積み出しの施設、洗炭場、鉄道施設、炭住、そしてかつて漁師たちが寝泊まりした番屋や赤錆を浮かした船に出会った時は新鮮な驚きを感じた。それらはすべて打ち棄てられていた。かつての栄華を、土地の記憶を強く廃墟や廃屋や廃船は焼き付けていた。
同時に感じたのは、廃墟が経済的価値から解き放たれて見えたことだ。人間が与えた価値から、これらの建築や船は解放されて、ただの物体に戻り、あたかも自然そのものとして息づいている。風雨にさらされたコンクリートの肌、錆びた鉄、茂る雑草は地霊の力を感じさせた。」『手の孤独、手の力』

廃墟は打ち棄てられることによって、新たな生命を得る。ある人々、ある階層、ある使命から離れることで、別の人々に愛され、別の役割を担うことになる。
現在の資本主義は「いつまでも壊れず、汚れない物は作らない」という呪縛の上に成り立っている。
言い換えれば、壊れたり汚れたりしたものは、ただちに新品に取り替えられるということだ。
廃墟は既に市場経済の埒外に位置し、貧しい人たちとその新たな生命を共有する。

新しい建造物は、廃墟化することで、自然の一部となる。衰え、やがて朽ちてゆくという、有機物としての生命を与えられる。
そこではじめて巨大建築は人間に近しいものになる。
廃墟を偏愛し、廃墟の絵を描き続けたユベール・ロベールは、建造物に「やがて滅びゆく」有機体としての生命を吹き込んだ人ではなかっただろうか。

「廃墟や廃屋や廃船が残されるのは、土地の経済的な価値が取り壊す費用と見合わないほどに低いためである。もし東京などの大都市であるならば、廃墟が生れるいとまも許されない。使われぬ建物は瞬時に建て直される。」(同)

大都市では時間も空間もすべてが経済対効果で計られる。廃墟の生きられない土地、「無駄」の許されない土地では、人間の生もまた、やせ細ってゆく。

The Barn Hubert Robert, 1760,
ユベール・ロベール「納屋」(1760年)








2018年2月4日

「猫」という哲学 或いは街角の哲学者

もし誰かに「好きな言葉はなんですか?」と訊かれたら何と答えるだろう?「猫に小判です」とでも答えようか?

なんのために
生きているのか
裸の跣(はだし)で命をかかえ
いつまで経っても
社会の底にばかりいて
まるで犬か猫みたいじゃないかと
ぼくは時に自分を罵るのだが
人間ぶったぼくのおもいあがりなのか
猫や犬に即して
自分のことを比べてみると
いかにも人間みたいにみえるじゃないか
犬や猫ほどの裸でもあるまいし
一応なにかでくるんでいて
なにかを一応はいていて
用でもあるような
眼をしているのだ
   ー山之口獏 「底を歩いて」


街中で猫の姿を見るとなぜかほっとする。
それが野良猫だったりすると尚更ほっとする。
「町」といっても大きな地球の一画だ。人間様だけのものという法はあるまい。

「猫に小判」という言葉が好きなのは、猫が人間がありがたがるものにまるで関心を示さないからだ。「馬の耳に念仏」でも「豚に真珠」でもいい。
その存在によって、人間の価値観をせせら笑っているようで愉快じゃないか。

大判・小判を有り難がらない人間がいてもよさそうなものだが、きょうびなかなかそういう御仁は見当たらないようだ。
人間はどうも人間の価値観から自由になるのは困難らしい。
そうなると人間の価値観から自由なのは、その埒外にいる他の動物ということになる。
「町」という、人間と同じ空間に住みながら、人間とは全く異なった存在。
そんな奴らの姿を見るとほっとする。

犬 も 入 れ て 残 ら ず 写 す  (放哉)

犬は人間の生活の中にスポッと納まってしまうかもしれないが、
記念写真を撮っている時だって、猫は澄まして庭を歩きまわっていそうだ。

人間が多すぎるんじゃない。同じような人間が多すぎるんだ。
猫も杓子も同じ道具を使い、同じ言葉を使い、同じように見、同じように聴き、同じ歩調であるく。

とにもかくにも人間がこぞって拝跪するものに目もくれない存在があるということだけで気が楽になる。

ところで梶井基次郎の「愛撫」という作品で、「私」は、ゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげ、その両の前足を瞼にあてがう。

「私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものではない休息が伝わってくる。
 仔猫よ!後生だから、しばらく踏み外さないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだから。」

尾崎放哉は

猫 の 足 音 が し な い の が 淋 し い

という句を詠んでいる。

一応なにかでくるんでいて
なにかを一応はいていて
用でもあるような
眼をしているのだ

猫よ、お前はいつでも裸で跣(はだし)でいてくれよ。
猫に小判、猫に勲章とあってくれよ・・・










2018年2月2日

思想はネットでは伝わらない。

『右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない』という坪内祐三の本のタイトルには素直に首肯する。

では「思想」はどのようにして人から人へと伝わるのかと訊かれれば、あくまで「オールド・ファッションド」であるわたしは、(坪内祐三風に言うなら「古臭いぞ私は」)このような方法で、と答えるだろう。

この国のおれは植字工
口ふさがれてパチパチと
ただパチパチと
神様の思想を植える。
ー新村正史 『生活の歌』(1936年)

山宣の写真が
壁にはげ残り
謄写版の匂いがするーー
懐かしい小舎(こや)
ー斎藤 薫 『短歌評論』(1937年)

人の手と、その汗と油を経て初めて思想はその重みを得、読む者の心に着床するのだと思う。何が書かれているかということ以上に、それが人の目に触れるまでにどれだけの「手間と隙」が費やされたか、ということがその思想の価値を決めると言ってもいい。

また「思想」を受け取るにも

傍線を強く引き、再び読み返し、胸に畳んで、偖(さて)表に出たばかりの眩しさ。
ー足立公平(孝平)(1936年)

という「手間隙」が要る。そして新たな「思想」がこの胸に根付いたという充足感があるとき、世界は新たな光に輝いて見える。

思想はきっとこのような手順でひとからひとへ、手から手へ、胸から胸へと伝えられてゆくのだ。人間の「思想」「想い」とネットは所詮水と油だ。言葉は水面に広がる油膜のようにただフワフワトユラユラト漂っているだけ・・・










2018年2月1日

世間猿

まだこちらのブログに馴れていないので、昨日まで友人からコメントが寄せられていたことに気が付かなかった。「Q&A」サイトの「哲学」カテゴリーの仲間で、フェイスブックのフレンドでもあったけれど、彼もFBを去った模様。

コメントが書かれてから20日以上気付かづにいたので、このブログをまだ見てくれているのかわからないけれど、お礼とお詫びに、彼にわたしの好きなジャズを贈ります。

クリス・コナーの「ザ・ナイト・イット・コール・ア・デイ」

チェット・ベイカーの「ポルカドッツ・アンド・ムーンビームス」





わたしは彼がSNSを辞めた(?)ことを残念とは思わない。
『右であっても左であっても、思想はネットでは伝わらない』という坪内祐三の本が最近出版されたようだけれど、これはわたしが日頃感じていることと同じだ。

Facebook であろうと、Twitterであろうと、それで人に影響を与え得ると考えているなら、あまりに後生楽だし、仮にそんなことが可能であるとしたら、それは寧ろ人間存在そのものが、そこまで「お粗末化」していることの証しに他ならない。

インターネット、ことにSNSは畢竟、人を分断し愚昧化させることにしか役立たない。
もし誰かがわたしに対して「君だってインターネットをやっているじゃないか。同じ穴の狢だよ」と批判するなら、わたしはその批判を甘んじて受け入れるだろう。

Twitter などで、訳知り顔で「思想」らしきものを語っている連中を見ていると、「諸道聴耳世間猿」という上田秋成の小説のタイトルを思い出して苦笑してしまう。

諸道 聞き耳 世間猿。正に陋劣なわれわれ現代人のことじゃないか?