遊民遊民とかしこき人に叱られても、今更せんすべなく
ま た 今 年 娑 婆 塞 ぎ ぞ よ ⾋ の 家 一茶
ああ、また今年も、みすぼらしいこのわび住まいで、何の役にも立たない穀つぶしの生活をすることになるのだ
『日本の文学古典編 43 蕪村集 一茶集』の解説(揖斐高)によれば、
「一茶四十四歳の年の歳旦句(新年の所感を詠んだ句)。前書きの「遊民」は、定職に就かずぶらぶらと遊んでいる余計者。ここでは俳諧師の身の上をいう。「かしこき人」は、高い見識を持つ人。一廉の人物。「娑婆塞」は、何の役にも立たないのに、娑婆(この世)に生き永らえているいること。穀つぶし、の意。
『文化句帖』文化二年八月の箇所に、一茶は『西鶴物がたり』から、いくつかの語彙を書き抜いているが、そのひとつにこの「娑婆塞ぎ」がある。この語の卑俗な強い調子の語感が一茶の自嘲と居直りの心情によく適ったものと見えて、早速実作に利用してみたのである。季語は「ことし」、新年。」 とある。
今年もあと二日。とても一茶のような心境ではない。
「居直り」も「自嘲」もない代わりに、新年に臨んでの所感も、希望も持ち合わせてはいない。
ただ年々厭世観と厭人感がいや増すばかりである。
◇
厭世観や厭人感といった心の在り方をもひろく包含する概念として「生の倦怠」所謂「アンニュイ(Ennui)」がある。そのアンニュイについての定義をめぐって書かれた文章の中に、以下のような箇所がある。
「ヴァレリーの『魂と舞踏』のなかでソクラテスが医師のエリュクシマコスに向かって「病のなかの病のための、毒中の毒のための、造化にさからうあの毒液のために」有効な解毒剤を持っていないかときく所がある。
「何の毒液です?」とパイドロスが尋ねるのに対してソクラテスは次のように答える。
「・・・生の倦怠という毒液・・・よく知ってもらいたい。私は一時の倦怠をいうのではない。疲労による倦怠、病源のわかっている倦怠、限度の知れている倦怠ではなく、あの完全な倦怠。不遇や不具を原因とするのではなく、あらゆる境遇のうち、見る目にも幸福な境遇にすら順応するあの倦怠ーーつまり人生そのものを唯一の実体とし、人間の明察力を唯一の第二原因とする倦怠なのだ。この絶対の倦怠はそれ自体として、人生が人生そのものを明晰に見るときの、あの裸の人生にほかならない」(伊吹武彦訳)」
『老いての物語』 (Ⅱ 定義集 「アンニュイ」 定義3) 河盛好蔵 (1990年)
けれどもわたしのこの「厭世観」が、単にロマン派的、文学的なアンニュイと呼べるものかどうかは疑わしい。
少なくともわたしの場合、この懈怠が、「人生そのもの」に由来しているとは思えない。明察力、といういささか面はゆい表現を避け、その原因を探ろうとするなら、わたし固有の美意識・感受性が、現在のこの歪(いびつ)な都市(或いは国)に生きることへの倦怠と疲弊を招来している、といったほうがより正確であるように思う。
それは誰かが書いたように、「正常であることがとりもなおさず「異常」を意味する・・・」ような現代社会に生きることの堪えがたい苦痛なのだ・・・
ボードレールに倣っていうなら、もはやわたしは一個の落日である・・・
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