Simon on the Subway , 1998、Nan Goldin |
こういう光景・姿を見なくなった。
電車の中でぼんやり窓の外に流れる景色に目をやったり、周囲の人を見るともなく眺めたりすることがほとんどなくなっている。
この写真が撮られた1998年、今から約20年前、人々はまだ何を手に入れていなかったのだろう?そして、なにを目にしていたのだろう?
ひとは「見るともなくみる」という眼差しのあり方を失ってしまっているのではないか。
いま、人の目は、「ある(或る / 有る)特定のモノを見る=読みとる」ためにしか使われていないのではないか?
◇
天 井 の ふ し 穴 が 一 日 わ た し を 覗 い て い る
鴨 居 と て 無 暗 に 釘 打 っ て あ る が い と お し
と放哉が詠む時、その眼差しには彼の心情が寄り添っている。
あたかも蚊や蠅のように、今までそこにいた身体を離れ、「天井」や「鴨居」に心を移動させることなく、目の前に立ち現れたものを認識するだけの固定された視線には、「天井に開いているふし穴」や「釘の打ち付けられた鴨居」以外の声は届かない。
芸術とは(あるいは詩とは)「虚」(非現実)と「実」(現実)との間(あわい)にこそ花開くというけれど、いま、人々の心は、過去の人の眼に映ったような、「豊穣な虚空」に眼差しを漂わせているだろうか。
障 子 の 穴 を さ が し て 煙 草 の 煙 り が 出 て 行 っ た ー 放哉
虚ろな目は、現実世界の凝視に倦み疲れた、日頃、肉体に幽閉されている魂の抜け穴なのかもしれない。
それを「放心」-「こころを放つ」と呼んでもいいかもしれない。
どこにも所属しない眼差しというものが失われているのではないだろうか。
「デイドリーミング」 Daydreaming, Oliver Ingraham Lay. American (1845 - 1890) |
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