2018年1月31日

絶望の先に見えるもの・・・

「もし、希望を語るとすれば、今の社会に絶望する人間が少しでも増えること、それが希望です」と、最晩年の西部邁は語っていたと、ある人のブログで読んだ。

100%共感できる言葉だ。
けれども「絶望の先」に、彼は何を見ていたのだろうか。
「絶望をするにも能力がいる」と言った人がいたように思う。
自分が「極北の地に立つ」ことを、どれだけの現代人が自覚し得るだろうか?
多くは「絶望の獄に繋がれていること」に「甘んじている」のではないかとさえわたしには思えてしまう。

「籠の中に生まれた鳥は、飛ぶことを考えることをしない」と、ホドロフスキーが嗤うように・・・
「立ち上がろうとしない者は足枷に気付くことはない」と、ローザが嘆息するように・・・

自分が牢獄に繋がれていることを自覚し、その軛から抜け出そうとするか?
或いは終生格子なき獄中生活に甘んじるのか。

絶望の先に見えるもの、それはなにか・・・

わたしはふと朝日平吾を思い出す。彼と、その最期の言葉を・・・
昭和十一年如月、深雪の中の兵士たちの心を想う・・・

西部邁が「この社会に絶望するものの多からんこと」と願ったのは、ただ絶望のための絶望でしかなかったのか?

「おれたちはみなドブの中にいる。けれどもそこから星空を見ている奴だっているんだ!」というオスカー・ワイルドの言葉は「絶望の先の光明」を見据えてはいなかったか?
「腐敗(くされ)」と「荒廃(すさみ)」の薄昏いどぶの中に蠢く己を見出したとき、
ひとは夜空に清浄な光を放つ星に手を差し伸べるのではないか?たとえそれに手が届かずとも・・・

にごれる憂き世の嵐にわれ怒りて、
ひとつ家、荒磯(ありそ)の沈黙(しじま)にのがれ入りぬ、ーー
捲き去り、捲き来る千古の浪は砕け、
砕けて、悲しき自然の楽の海に、
身はこれ寂寥児(さびしご)、心は漂いつつ、
静かに思いぬ、岸なき過ぎ来し方、
あてなき生命の舟路に、何処へとか、
わが霊(たま)孤舟(こしう)の楫(かじ)をば向けて行くと。
夕浪懶うく、底なき胸のどよみ、ーー
其色(そのいろ)、音皆不朽の調和(ととのい)もて、ーー
捲きては砕くる入日のこの束の間、
沈む日我をば、我また沈む日をば、
みつめて叫ぶよ、無始なる暗、さらずば、
無終の光よ、「全て」を葬れとぞ。
ー 石川啄木「ひとつ家」










2018年1月30日

壊れた世界 壊れた心・・・世界はまだ美しいという人がいる・・・

ひとびとは写真を撮る
まるでまだ世界にはうつくしいもののかけらが残っているかのように

秋に散ったたった一枚の色づいた落ち葉
路にころがっている一この団栗
わずかに世界に遺された美の欠片
そのいちまい、そのひとつぶを手に取るために
それを見るためだけに外へ出るべきなのだろうか?

自然は美しい それは
僕の 末期の目に
映るからである

と、芥川龍之介は書き遺した

けれどもわたしのこころを圧し潰すこの圧倒的な醜さは

なぜ扉を開いて外の世界へ足を踏み出すのか?

地に落ちた美の遺骨を拾い上げるために?





世界の微かなうつくしさのみを針小棒大に語り、膨大なその醜さから目を背けるものをわたしは厭う・・・



わが心を領したる鬼は
嗟嘆す
美しと見ゆるもの
そは すべて
豪奢と兇悪を
具えたりと 
      ー村山槐多






















2018年1月28日

文化としての騒音 壊れた景色 Ⅳ

東京メトロ、地下鉄日比谷線のダイヤの一部で、明日、1月29日月曜日から車内にBGMを流すというニュースを知り、且て中島義道が「日本の文化としての騒音」と書いていたことを思いだした。彼の『うるさい日本のわたし』(正・続)は、共感と反発、相半ばする気持ちで読んだが、「日本では騒音を文化と見做している」という主張には100%共感する。

流れる音楽の種類が何であっても、そもそも個人々々の「趣味の領域」に属するはずの「美」や「快適さ」を、一様に親切ごかしでお仕着せるという発想が、いかにも邪蛮(ジャパン)的で、そこには、差し引いてゆくこと、控えめであること、抑制することではなく、上乗せすること、付け加えることを良しとする粗野で幼稚な美意識が露呈している。

現代日本人の耳目は「何もない空間や時間」というものに堪えられなくなっているのかもしれない。その目は不断に文字や画像を読み取らずにはおらず、耳は無音の状態に居たたまれない。

「水」や「空気」は、本来「無味無臭」である。けれども、それは決して「無味乾燥」ではない。「水」や「空気」の持つ「味」や「匂い」「うま味」に無感覚な者は、「何もない空間」の滋味というものを解し得ないのではないか。

「水にちょっと甘みを付けましょう」「空気に少しよい香りを乗せましょう」それと同様の倒錯した美意識が、今回の電車内でのクラシック・ヒーリング・ミュージックのBGM採用に通底しているように思われてならない。
日々の風景にどのような色付け、味付けをトッピングするかは個人の裁量に委ねられるべきであって、他人の容喙すべき事柄ではない。

ありふれた日常に逍遥し、世界の小さな断欠を観察する者にとって、或いは人気のまばらな車中の夢想者にとって、その妨げとなる「ノイズ」は、「ダダンダダン、ダダンダダン」という、単調であるがゆえに心地よく反復するリズムを体内に刻み込む列車の走行音ではなく、両側に一列に並ばせて口をこじ開け、飴玉をしゃぶらせるように、無理強いに聴かされる、まともな三半規管を持つ者にとっては堪え難い騒音でしかない「ショパン」であり「ドビュッシー」である。

「聴かされる」音楽は、いらない。











2018年1月27日

待ち望む終末(或いは厭離穢土)

昨年暮れ、思い立って利用してみようかと考えていた訪問看護も、精神科でおこなっているカウンセリングも、結局立ち消えになってしまった。
こちらのブログにも書いたように、現在の日本に生きていながら、それらを利用することで、どのように「生き易く」なるのか、まるで見当がつかないからだ。

引きこもりを余儀なくされている多くの人たちのように、わたしは「人が怖い」ということはない。けれども「人間嫌い」は年々その度を強めているようだ。人間嫌い。そして生まれ育った街であり、約半世紀を閲して、再度の「健康の祭典」へ向けて着々と「観光穢土」化する東京への嘔気。常に疑似(エセ)東京たらんと努める地方都市への厭気・・・

自分が現在の美意識や感受性、或いは「正気」を保ったまま、この国で生き易くなるということが考えられない。

人々は往々にして、「どのような社会を創るか」という方向にのみ目を向けているが、わたしの夢想は寧ろ「どのようにこの社会が滅びるのか」ということにある。
言い方を換えれば、「創出するために破壊する社会そのもの」が消滅するときである。
わたしが見たいのは、虚飾に満ちたきらびやかな都市の週末の風景ではなく、待ち望んで已まぬ全き終末の光景である。






2018年1月26日

弱者の罪・・・

「自分がダメなのは自分のせいであって、それを他人や社会のせいにする人はわたしは嫌いです」と言う人たちがいる。幾らかの優越感と自己満足を伴って。
こういう考え方ほど為政者にとって好都合なものはない。自分たちの無能・怠慢、無為・無策によって、人の一生の行程の至る所に穴ぼこをこしらえておきながら、それに落ちたのは誰のせいでもない、自分が悪いのですという者たちほど、政治家にとって愛おしい存在はないだろう。

以前若者のホームレス救済・支援活動をしているNPOを取材した本を読んだ時に、若いホームレスたちの多くが、こういう状態になったのは自己責任だからと、なかなか援助を受けたがらないという記述があった。その時わたしが感じたのは、痛ましいという気持ちでも、また憐れという感情でもなかった。わたしは彼らのそのような言葉に、なにやら滑稽なものを感じずにはいられなかった。「どこまで人がいいんだろう」と、可笑しくなった。

「人のせいにも社会のせいにもしたくない」ということが、まるで立派な心掛けででもあるかのように思い込んでいる人たち。
もっとひとのせいにしてもいいのに、もっともっと社会や政治のせいにすべきなのに、そうしないことで逆に弱者全体を更に窮地に追いやっていることに気付いていない者たちの罪。

もし「弱者の罪」というものがあるなら。それは「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんなわたしのせいなのよ」と卑屈になって見せる人たちの被虐癖=マゾヒズム、そしてその偏狭さによって、本来味方であるはずの者(例えば生活保護費を使ってパチンコで憂さ晴らしをする者)を「恥ずべき存在」呼ばわりして足れりとする愚かしい「利敵」行為に他ならない。

引かれ者よ堂々と小唄を唄へ!


誰か 肯じて坐守して
亡逃するなからん

「誰が座して死を待とう
 逃散して賊となり
 叛徒となるのが当然ではないか」 ー 詩 王安石  意訳 竹中労








2018年1月23日

壊れた景色 Ⅲ

移ろいゆく町の姿に嘆息しながらも、「・・・町は変わってゆく。この町を愛しているけれど、わたしは再開発反対などと声高に唱えるつもりはない」と書いていたアマチュア・フォトグラファーがいた。そんな言葉を読むたびに、自分の感性との大きな隔たりを感じずにはいられなかった。

仮にわたしが毎日親しみをもって見ている樹があり、或る日その樹が伐採され無くなっているのを目にしたとき、その時わたしの心は、最早樹のあった時のものとは同じではない。大袈裟ではなく、わたしはその樹と共に、なにかを、魂の一部を喪失したのだ。

あそこにあった木造のアパートが取り壊されていた・・・
駅前の商店街の様子がまるで変わってしまった・・・
「アルベキモノ」が最早なく、「無かったもの」が現れる。
わたしはそれを「町は変わってゆくのだ」と肯い、受け流すことはできない。

ふるさとに入(い)りて先ず心傷むかな
道広くなり
橋もあたらし -啄木

その低劣な文化と極めて低い美意識に因って変わってしまった、また変わり続けることを宿命づけられたこの街の姿、形・・・。あるべきものが消えてゆくこと。「そこ」が最早「そこ」ではなく、「あそこ」は既に「あそこ」から消えていること・・・その心の傷み=「傷」が、終生癒えないこと。
それを「この景色は醜い」というよりも「わたしは苦しんでいる」というべきだとヴェイユは言うのだ。

わたしはこの街に「根」を持つことはない。何故なら「この街」「この国」自体に根というものが存在しないのだから。「根」或いはそれを「錨」と言い換えてもいいだろう。存在を安定させ固定しておくアンカー、錨。錨の名を持つスイスの画家、アルベール・アンカーは、かつて「見なさい、世界は呪われてはいない」といったというけれど、わたしは目まぐるしく転々流転する安らぎのない風景の中を漂いながら、永遠のホームシックに苛まれている。


2018年1月22日

壊れた景色 Ⅱ

長く家に閉じこもっていることを余儀なくされると、人を愛し、慈しみ、敬い、思い遣る心や、やさしさ等の感情は次第に萎え、しぼんでゆき、心は次第に狭量になり、憎しみや怒りがわたしの胸の中を支配するようになる。

シモーヌ・ヴェイユはこう書いている。

わたしたちは事実と想像の乖離にじっと耐えなければならない。そして「わたしは苦しんでいる」と言った方が、「この景色は醜い」というよりもいいのだ。
ー『重力と恩寵』
We have to endure the discordance between imagination and fact. It is better to say, “I am suffering,” than to say, “This landscape is ugly
. 
 わたしは 「この景色の醜さ」に苦しんでいる・・・
しかし「景色の醜さ」に「苦しむ」ということを誰が理解できるのだろうか・・・