文学




チャールズ・ブコウスキーの言葉に、

「文学が無ければ人生は地獄だ」 というのがあります。

“Without literature, life is hell.”
 
- Charles Bukowski - 

これは同時に、

「人生は地獄だ、だからこそ文学が必要なのだ」と言い換えることも出来るでしょう。

最近読んだ本で面白かったのは、メルヴィルの「代書人バートルビー」。
「世界一孤独な男」の物語ですが、バートルビーの孤独な内面はバートルビー自身の口からは一切語られません。

この本を読んで、サイモン&ガーファンクルの”A Most peculiar man" を直ぐに思い浮かべました。
日本では「とても変わった人」という何とも座りの悪いタイトルがつけられていますね。

最近はプリーモ・レーヴィのナチスの強制収容所の話や、石原吉郎のシベリア抑留体験を下に書かれた幾つかの散文、そしてマンガではありますがつげ忠男の本を読んでいます。

これらの本を読まずに街を歩いていると、有史以来「不幸な人」等存在しなかったのではないかという想いに囚われます。

ある詩人の文章に、今は1931年よりマシだなんてどうして言える?とありましたが、同感です。1930年代は世界恐慌の時代、治安維持法の時代、そして、15年戦争~第二次大戦直前の時代でもありました。暗黒の時代でしたが、今のように、「全てが眩い白色の闇」(ジョゼ・サラマーゴ)に覆われた時代より余程よかったと思うのです。

今後読みたいと思っているのは、ブレヒト、デュルケーム、ベンヤミンといった、今60代、70代の方たちが大学時代に当たり間のように読んでいた本ばかりでお恥ずかしいのですが。。。

元気でよい週末をお過ごしください。


猟奇歌より。




●自殺しても

 悲しんで呉れる者が無い

 だから吾輩は自殺するのだ。


●殺すくらゐ 何でもない

 と思ひつつ人ごみのなかを

 闊歩してゆく。



  夢野久作 ー猟奇歌ー より

『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』




ショーン・ペン主演で2004年に作られたこの映画は、あまり話題になっていないようだけれど、ぼくはこれまで何度もDVDを借りて観ている。
観るたびに気が滅入る。けれどもこれが現実なのだ。

ロバート・デ・ニーロの「タクシー・ドライバー」を彷彿させるけれど、実際、
ぼくが他のアメリカン・ニューシネマに比べて。。。『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』『真夜中のカウ・ボーイ』『追憶』『カッコーの巣の上で』に比べて、それほど重んじていないのは、『タクシー・ドライバー』が、いわば、ハッピー・エンドの作品だからだろう。

1974年、旅客機をハイジャックしてホワイトハウスに突っ込もうとした男が実在した。その事実をもとにこの映画は作られている。

日本のコピーの文句は、
「あまりにも孤独で、あまりにもナイーヴなテロリスト」

この映画を観ていて、彼にそこはかとない違和感、過剰なものを感じてしまうぼくはきっと彼ほど狂ってはいない、言い換えれば彼ほど「正気」じゃないと思ってしまう。狂気と正気は単に「側」の問題に過ぎないのではないかと思う。

彼は自分にも他人にも誠実たろうと常に考えている。しかし商売は、ひいては、「生きていくため」の名目のもとでは、誠実さは生きる上での障害にしかならない。

ある会社にセ-ルスマンとして入社した夜、社長とその息子と、3人でバーで乾杯をしていた。

社長がいう

「世界一の商売人は誰だと思う?」

「あいつだ。」とグラスでTVに映し出されたニクソンを指す。

「2億人の国民に自分を売りつけた男だ。一度ならず二度もね。彼の68年の選挙公約は?」

「あの時は、たしか。。。。」

「”戦争を終わらせる”といった。だがベトナムから撤退したか?逆に兵力を10万人増やして北爆を再開した、それがニクソンだ。

去年の選挙公約は何だった?”戦争の終結”それで再選された。圧勝でな。 
セールスマンの鑑だよ。
約束はするが実行はしない。
同じ口約束を繰り返して何度でも国民を手玉に取る。。。
自信の成せる業だ。」

とことん純粋であるが故に周囲から疎まれ、次第に彼の孤独と苦痛は体制への反逆へ、そしてそのシステムを象徴するニクソンへと収斂されていく。

オリジナル版のコピーは、"The mad story of True man"

心情的にはテロリストに何の敵愾心も持っていない。。。


無題




8月、生きていれば50歳になるが、世の中わからないことばかりだ。
何故盗みはいけないのか?何故殺してはいけないのか?

世の中全て金。

本屋だって、詩集や哲学書を商品としてそれを売ることで「商売」をしている。
だからこそ、万引きのように、金を盗むのもには形振り構わず対抗、敵対するのだ。

北朝鮮や中国が、共産主義の失敗の見本なら、この日の丸の国こそ資本主義の最悪の失敗例だ。

選挙で自民党が圧勝してさっさと憲法を変えればいい。戦争をせよ。そして跡形も無く滅亡せよ。。。

続・勲章




劇団民芸が画家、熊谷守一を主人公にした舞台をやっていると東京新聞に書いてあった。
熊谷守一は文化勲章を辞退した数少ない芸術家の一人。
それを、初代の、宇野重吉、滝沢修、そして草分けの大滝秀治まで、国家からの叙勲者を輩出している民芸ごときが演るなどとは、僭越ではないのか?

思うことなど。。。





“Without literature, life is hell.”
 - Charles Bukowski -

「文学が無ければ人生は地獄だ!」チャールズ・ブコウスキー。。。
けれどもこれはこういいかえることもできるのではないだろうか?

" life is hell, therefore we need literature."

わたしは友達と話をしたり、散歩をしたり、お茶を飲んでおしゃべりすることができないので、
その代わりに本を読んで、ビデオやDVDで映画を観たりする。

読んだり観たりしているのは、戦争のことだったり、石原吉郎やプリーモ・レーヴィのように戦争での捕虜生活を送ったり、強制収容所での非人間的な生活だったり、プリーモや、高野悦子のように自死した人のことだったり、「証人の椅子」に描かれているような「冤罪」事件だったり、
戦前・戦後の思想弾圧だったり。。。
つまりわたしは知りたいのだ。自分の他にも苦しんで生きてきた人たちが存在していたことを。

街を歩く人たちは無表情で掌の上のプラスティックの板を眺めて、あたかも目の前で人が倒れても気がつかぬくらいに能面のような同じ顔で歩いている。
わたしには彼らに悩みがあるのか?幸・不幸をかんじる感覚があるのかと訝る。。。

戦争、ファシズム、自殺、思想弾圧、冤罪。。。そういうものばかり読んだり観たりしてどうして気が晴れることがあるだろうか?
しかしわたしには他にすることがない。

一方で、戦前に左翼運動で弾圧を受け、獄に繋がれ、戦後は反戦・反体制映画に数多く出演したり、庶民的な映画を作り続けてきた映画人、演劇人は後年、天皇、或いは内閣総理大臣から礼装して、恭しく勲章を押し頂いたりしている。

「わたしは共産党を支持してないけれど、ひとつ、いいなと思うのは、叙勲だけはお断りしま すという姿勢ですね」と、辺見庸は書いている。
そしてもらわないことは最低限の人間の矜持でり廉恥である、と。

ハインリッヒ・ハイネは、若い頃、気鋭の論客で、アンチキリスト者だったものが、晩年相次いでキリスト教徒になってゆくことに対し、「要は彼らは老いたのであり、衰えただけのことだ」と書いている。

わたしは『善』とか『悪』とかいうことはあまりよくわからない。ただ、仮に自分の友達が、人を殺したことがあるとか、アル中とかジャンキーとか、売春をしたことがあるとあると聞いても左程驚かない。それよりも変節漢を薄汚いと感じる。

三島由紀夫が天皇から勲章を貰って喜んでもそれは微笑ましいと思うだろう。何故なら彼は一度もアカくなかったから。

山田洋次、黒澤明、宇野重吉、滝沢修などについては、「つまりは、老いて、衰えたのだ」と思うより仕方が無いだろう。それは辺見庸の言うように恥知らずの行いではあるけれども。。。

紫綬褒章よりも金鵄勲章=「"前科"の符丁」の方がずっとイイ!





 

木曜の朝5時前・・・




正月。そばを食べて横になって寝てる間に年が変わっていた。なんのことはない、ただ周りが騒がしく感じられて鬱陶しい。なんで正月だとハッピーなのかわからない。自分は少しもハッピーな気分じゃない。水曜日が木曜日になっただけ。そんな風に感じるのはわたしだけかもしれない。それでもそう感じているんだから仕方がない。利口な人間なら、人と違うことは感じていても口にしないのだろう。
人が喜んでいるのに水を差すようなことはどこでも嫌がられるからね。
わたしはこの自分の感受性でどれだけ友人を失ってきたかわからない。人をひきつけることなどなく、ただ距離を生み出すだけの感受性。

チャールズ・ブコウスキーの詩にこういうのがある。

7歳の子供が電車に乗って外を眺めている。
隣には男が座ってやはり見るともなしに外の景色に目をやっている。
電車は走り、景色が流れてゆく、
やがて窓の外に海が広がる。
海辺を走る電車の中で、子供がぽつりと「きれいじゃないね」
男はそれを聞いてはっとする。
「海は美しい」ものだと思い込まされていた自分に気付く・・・

や、まぁ「裸の王様」を書き換えたような感じだけれど、
必ずしも「海は美しくない」と思わなければならないわけじゃない(苦笑)
子供の感性が壊れていたのかもしれない。
やっぱり海は美しいのかも・・・

いずれにしても、自分は本当はどう感じているのかが大切なことだ。
「うつくしい」と本当に感じるのか?
そういわれれば別に美しいものじゃないと感じるのか?

この場合、子供がいったのではなく、ショーン・ペンからU2のボノまでがカリスマ視している、ブコウスキーという「権威」が子供の口を借りていったことに容易に屈してはならない。
ブコウスキーはブコウスキー、自分は自分だ。

クリスマスや正月がめでたくないし自分はちっともハッピーじゃないというのはわたしの今の偽らざる気持ちだ。
別に世の中に失業して住む処さえ失った人たちのこと、今年も自殺者が10年連続で3万人を超えたことなどを思っているのではない。ただ自分が面白くないとおもうだけ。

誰かにハッピーにゅーいや~~!!なんて言うのが辛い(苦笑)
本音を言うとメリークリスマスもハッピー・バースデーも言いたくない。
なんだか貧乏人が金持ちに寄付しているような感じだ。

ただこの世界にただひとりだけ、本気でわたしのことを思って心配してくれる人がいて、
その人には生まれてきてくれてありがとうという気持ちを持っている。

親と同居しているものの、正直あまりうまくいっていないし、あらゆる意味において友達といえる人は彼女ただひとりで彼女は67歳。

彼女にもしものことがあれば本当に文字通り天涯孤独の身だ・・・
つまり、生きている理由が失われるということだ。



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10の質問 "INSIDE THE ACTORS STUDIO" より。




1、お気に入りの言葉は?

反抗、反骨、反体制・・・

  
2、嫌いな言葉は?


  セレブ

  売れてます!


3、気持ちを高揚、いい気分にさせてくれるものは何ですか?

 形のあるナシに関わらず「うつくしいもの」・・・ある時はホームレスの姿だったり、雨に濡れる 棄て犬だったり・・・日常の中の詩、哀歓・・・

 

4、何があなたを、めげさせますか?


 鈍感さ、人の心の移ろい易さ、幼児虐待・・・そしてしばしばわたし自身・・・

  
5、お気に入りの悪態は?

 悪態はつきません。基本的に喧嘩する前に消えてるので・・・(苦笑)

  
6、好きな音は?

  鳥の声、木の葉のさざめき。虫の音、枯れ葉ノ上を歩く音・・・


7、嫌いな音は?

  木を切るチェーンソーの音、車のアイドリング、おばさんたちのさざめき・・・

 

8、今の仕事以外でどんな仕事に就いてみたいですか?


今、仕事してないんですけど(汗)

ラジオのパーソナリティーかな?

墓守?

  
9、どんな仕事には就きたくないですか?

政治家、警官、警備員、軍人、いずれにしてもとにかく「体制側」にある仕事。更に言えば人を「捕縛」する仕事、或いは人を「裁く」仕事・・・

  
10、もし天国が存在するとして、その門にたどり着いたとき、神様に何と言ってもらいたいですか?

 お前を地上にやったのは間違いだったな・・・


・・・ロバート・デ・ニーロの答えは傑作です。

「ふぅん。神がいる・・・”じゃぁまず神のいい分を聞こうか・・・”」



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解けない謎・・・




この日記を書いてから同じようなことを何度も書いているが、
未だに謎は解決されていない。

この際だから、社会問題にお詳しいざぞ@くらげさんや奥円さんあたりのご意見を伺いたいところだが、
いわゆる、社会人とマナーの問題だ。

「社会人のマナー」というのも実は変な言葉だ。
マナーのない社会人という言葉自体が存在し得ないのだから。

わたしはニート生活10年目になる。
何度も繰り返し書いてきたことだが、無能で使い物にならないからだ。

だから社会に出て働いている人は、自分より優秀な人だという思いがある。
何も大企業、有名企業に限らない、社会人というのは優れた人間のことだと・・・

ところが、今日も電車で社会人らしい二人連れがいて、
ひとりはわたしの隣に座り、もうひとりは彼の前に立って吊革につかまっていた、
暫くしてわたしの隣の席が空いたので、わたしは二人が並んで座れるように席をずれた。
立っていた男性は、まるでわたしが電車から降りていったかのようにまるでわたしの存在などないかのように、友人と話を続けながらわたしの空けた席に腰を下ろした。
わたしはこういう時には「あ、どうも。」くらいの挨拶は当然だと思っていた。

この例に限らず、車の中でエンジンをかけたまま眠っている者、
道に、下水に吸殻を捨てるもの、空き缶を他人の自転車のかごに放り込むもの・・・

いわゆるマナー違反をしているものはいたるところで目にする。
わたしはそのたびに思う、
ああ、きっとわたしと同じニートだなと。

なぜならこのような最低限のマナーを守れないものが社会で通用するはずがないからだ。
もし彼ら彼女らが社会人であるとすれば何かずば抜けた才能の持ち主なのだろう。

会社と言うものは仕事が出来れば人としてのマナーなど問題でないと言うのなら、
マナーを守らない人はみな優秀な人ということになる。
特別仕事が出来るわけでもなく、マナーも守れない人がいるとしたら、
人事担当者は何故その人間を敢えて「採用」したのだろうか?

無論人事にも目違いというのはあるだろうから、
そういう人間はやはり1~2ヶ月でクビになっているのだろうか?
もしそうでなく、会社やその組織に居続けているとすれば、

仕事センターで繰り返し言われる一に挨拶二に挨拶、とかマナーを身につけようと言う企画はいったいなんだ?
無駄な企画じゃないか?

わたしにはわからない、何故吸殻を道に投げ捨てる人が、
席を譲られてお礼のひとつも出来ない人が「社会人」なのか?

はっきり言ってくれないか。
社会はマナーなど求めていないと。
仕事に関して優秀な人材だけを求めていると。
だから多少の不品行は彼の優秀さによって相殺されうるのだと。

優秀でもなくマナーもなってない社会人などいないと。
きみが見たのは全てきみと同じ「使えないやつ」=ニートであると。



あたりまえのこと・・・



それが人間全体への報復乃至復讐だとすれば、

「誰でもよかった」というのは全くあたりまえのことじゃないのか。

孤独地獄




人は、人間からも、神からも、自然からも無縁に、それでも生きていくことが出来るのだろうか?

森の木々も、庭の子犬も、あなたの部屋の猫も、そして神も、

あなたには何の関心も持ってはいない。

そう感じた時、あらゆるものを滅ぼしたいという気持ちが芽生えるのは自然ではないだろうか?

何故なら、人も、自然も、神も、全てはわたしを疎外するのだから。

自然の中にひとり居ても、わたしの心は砂漠のように荒涼としている。

「誰でもよかった」至極当たり前の気持ちではないだろうか。

あらゆる生命を根絶やしにしたい。

そう思うのは当たり前じゃないか。

自分を含め、この地球という冷酷な星が消滅すればいいと思うのは。

覚え書き・・・



自然は決して人を裏切らないと書いた。

加藤君は自然や音楽や文学に心を慰められることはなかったのだろうか、と・・・

けれども果たして自然は、或いは神(この場合の神とは特定の宗教の特定の神のことではなく

「超越的存在」のこと)は、わたしや加藤を許し、受け容れてくれるだろうか。

このような人間でも、自然や神は選別することとなく受け容れてくれるのだろうか?

神に関しては、ちょっと難しいと思う、

何故ならわたしは直接神と向き合うことはできずに、神の使いと称する人間を通じて神と話さなければならないからだ。

先日の哲学カフェの法相宗の坊主は先ずわたしを洗脳しようとするだろう。

「神にふさわしい人間になれ」と。

このままの穢れて何者でもない無価値な存在のまま受け容れて欲しいと望むことは、

相手が神や自然でも無理なのだろうか?

わたしは神に許されるだろうか?

わたしは自然の懐で亡骸を横たえることを、自然の中に還って行く事を許されるだろうか?

今、わたしは自然や神からさえ見放されている気がする。

・・・わたしは自分が人間の世界で通用しないことを、人間がわたしを受け容れてくれることはないということを知っている。

それはわたしは「彼ら」にふさわしくないから。

わたしは自然にふさわしい存在だろうか?

神に許される資格があるだろうか?

神や自然もまたわたしを疎外するだろうか?

神や自然もまた人間界と同様の価値観を持つのだろうか?

わたしや加藤君はやはり自然や神からも「許されざる者」なのだろうか?

人間に許されずともよい。

人間に疎まれても構わない。

ただ自然から疎まれる自然界に拒絶される人間にはなりたくない。

しかし多分わたしは、ふさわしくない・・・


ひきつづき・・・




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浅はかなる人々・・・




先日、新聞で紹介された「哲学カフェ」というのに行ってみた。

全国紙にも紹介されたという話だから、ご存知の方もいるかもしれない。

「哲学カフェ」といっても、そのような「カフェ」があるわけではなく、

新宿に古くからある「らんぶる」という喫茶店の一角を借りて、30~40名くらいで

その日のテーマに沿って話をするというもので、

格別難しい話をするわけではない。


その日のテーマは「欲望」ということだった。

複数の参加者が自分の「欲望」として挙げたのは、

「頼られる人間になりたい」ということだった。

「とにかく頼られる人間になりたい」という者もいれば、

「自分にとって大事な人に頼られたい」というひともいた。


・・・わたしは嘗て誰かから頼られたいと思ったことがないので、

何人もの人が、ニュアンスの違いはあっても、「頼りにして欲しい」という発言をするのには驚いた。

けれども、

この世の中、頼って欲しい、頼りにしてもらいたいと思う人と、

頼りたいという人がいて、わたしなどは後者に属するのだけれど、

悲しいかな頼りにされたいという人たちは、決まってその器ではないのだ。

そもそも、「頼りにされたい」などと公言すること自体が薄っぺらじゃないか。

仮に誰かに言わなくても、そういう発想自体浅ましいじゃないか。

自分は人から頼られても平気だと思っているとしたら、身の程知らずとしか言いようがない。

主催者はもうかなりの年配の大学教授だが、「唯識論」という「学問」が真実だと信じている。

そして人の意見に「いや、それは違うんだなぁ・・・」と自分の世界観を押し付けてくる。

世の中には、この人同様、或いは経済学で、或いは心理学で、人間というものが説明可能と考えて疑わない単純な人間が少なくない。

三島由紀夫の心理学嫌いはつとに有名だ。「心理学なんかで人間という複雑怪奇な存在がわかってたまるか!」正に然り・・・

しかし世の人もまた同様に、歯切れのいいことを言う人間を信用するという軽さから抜けきれない。

これはこうなんだと、複雑なものを一刀両断してみせる大見得に惹かれるのだ。

世間には簡単なことをわざわざ難しい言葉で言うものもいれば、

同時に複雑極まりないものを簡単に自分の手持ちの知識でわかった気になって満足している者も少なくない。


繰り返し言うが、頼る方は頼ってきてくれという者を信用しない。信用できないのだ。

本当にこちらが頼りたい人間は、却って人から頼られることを敬遠するような人だと思う。

自分はそれほどの人間じゃないといえるほどの器の人は稀だ。

世の中には「自分を高めれば人は自然とついてくる」と信じて疑わない者もいるが、
なんとマァ後生楽な人たちじゃないか。


しかし幸いなことに、救われたいと思っている人の多くは、頼りにしてもらいたいねと吹聴する者に案外安直に救われたりしているのだから上手く出来てる。

わたしはこの日記を書いていてある時期、たまに思うことがあった。

それはウィリアム・ブレイクの言葉で、

「鷲が雀に飛び方を習おうとすることほど愚かしいことはない」というような言葉だった。

今でも鴻鵠は「燕雀」にしがみついているのであろうか・・・

悲しいかなめくらであったか・・・

「桃李(とうり)もの言わざれども下(した)自(おの)ずから蹊(こみち)を成す」
 
「もの言わざれどではない。言わざればである・・・」

と書いたのは誰であったか?

つまり「実るほど頭を垂れる稲穂かな」である。

自己研鑽してこんなに立派になりましたと背筋を伸ばした稲穂など馬鹿げているということだ、

滑稽でしかないと言うことだ。

最近は「桃李」ですらないもののところにやたらと蹊が出来るようだ・・・・


DIRTY MIND/ 「美は見るものの心にある」




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ともだち・・・




友達をつくるということはとてもむずかしいことだ。

わたしはもうすぐ45歳。

これまで約半世紀近く生きてきて、

本当に心を許せる友という人はただ一人だけ。

もちろん心からの親友と呼べる人がひとりでもいるということだけでも

神様に感謝すべきことだが、


わたしは本当にオール・オア・ナッシングで、

全くの赤の他人か大の親友か、その中間の付き合いというものが一切ない。

つまりそこそこ話が合うという人間に出会ったことがないのだ・・・

現実世界でも、インターネットの世界でも、

わたしはいつも疎外感を抱いている。

「人と異なること」を重んじてはいるが、

ここまで一般人と異なる人間というのも珍しいのではないか?

最近思うのだが、秋葉原の加藤くんも獄中で深く反省してたりして・・・

「やっぱり人殺しは悪いことだと思います・・・」

ああ、そんなのやりきれない。

太宰であったか誰かの文章に、

イエスと共に磔になったふたりの罪人がいた。

ひとりは刑の直前にイエスに救いを求めて魂の救いを得た。

もう人は悪びれることなく、轟然と刑の執行を待ったという。

作家はこの罪人の姿をよしとすると書いてあった。

わたしも同様だ。

やったことを悔いないでくれ・・・・

愛国心とは・・・



"A patriot must always be ready to defend his country
against his government.."- Edward Abbey



《真の愛国者は、我々の国をその政府から守らねばならない・・・》


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Same Person・・・




かとうともひろ・・・

そんなタイトルの日記を書いたらアクセスが増えているようだ。

そう、いま人は

加藤智大、かとうともひろ、カトウトモヒロ、TOMOHIRO KATO ・・・この「文字」に関心を持っている。

けれども、もし、このタイトルが、「孤独」「ひとりぼっち」だったらどうだろう? 

「孤独」というタイトルと「加藤智大」というタイトルと、どちらが集客力があるだろう。

わたしはそれを試してみたくてタイトルに時の人の名前を使った。

でもね、「孤独」と「加藤智大」って、実は同じ人なんですよ・・・

かとうともひろ・・・





秋葉原の事件から何日経ったのだろう?

人々はまたいつもの日常に返っていったのだろうか?

新聞を読むと、ネット上には「加藤は神だ」「加藤は英雄だ」「加藤ごめん」というような書き込みが少なくないとある。

けれども、全ては後の祭り。仮に加藤ごめんと書き込みをした人間が、事件前の加藤に会っていたとしたら、彼は加藤を救えただろうか。

わたしはそうは思わない。

なぜなら、今、この瞬間も、「加藤智大」という名前ではない人間が、加藤智大と同じ苦しみにあえぎ、同じ絶望を抱えているのを誰も救えないからだ。

たとえあなたの周りに、あなたのすぐ傍に、別の名前をもった「加藤智大」がいても、

きっとあなたは気付かない・・・いや、気付いていても救えない。

それは彼の書き込みに反応していた少数の人間の反応を見ていればわかる。

わたし自身、いのちの電話でも、福祉・人権系のNPOでも、精神科医やカウンセラーでも、いつも

嫌な思いばかりさせられてきた。


彼がもし、称えられるものを持っていたとしたら、皮肉なことにそれは誰も救済することのできない、

誰の手も届かない深い深い孤独と絶望を抱えていたからに他ならない。

幸いなるかな、救済され得るもの・・・

なぐりがき。




以前電車の中吊り広告で、「わが子をニートにさせない教育法」とか「わが子を『負け組み』にさせない親」なんていう雑誌のコピーが目に付いたけど、

そもそもわが子を負け組みにさせないようにした結果が先の秋葉原の加藤家の教育であり、親だったんじゃないのか?

無論彼が小学校に入る20年前には「勝ち組み」「負け組み」なんて言葉はなかったけど、
結局根は「人より抜きん出ること」を最優先させた結果がこうなったのではないか?
わが子を負け組みにさせないというのは言い換えれば他人を負けさせる方法ではないか?

勝ち組み、負け組みなんて呼称があろうとなかろうと、
親の期待は大抵の場合子供を潰す。


多分多くのメディアで取り上げられた詩で、今更の感はあるけれど、
わたしはいつも言ってるようにTVも雑誌も観ないので、
ここに挙げておく。

◆◇◆


    奈々子に
          
赤い林檎の頬をして 眠っている奈々子
お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり 奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの つややかな頬は
少し青ざめた

お父さんにも ちょっと酸っぱい思いがふえた
唐突だが 奈々子
お父さんは お前に多くを期待しないだろう

人がほかからの期待に応えようとして
どんなに自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり知ってしまったから

お父さんが お前にあげたいものは
健康と 自分を愛する心だ

人が人でなくなるのは 自分を愛することをやめた時だ
自分を愛することをやめる時
人は他人を愛することをやめ 世界を見失ってしまう
自分があるとき 他人があり 世界がある

お父さんにも お母さんにも 酸っぱい苦労がふえた
苦労は 今は お前にあげられない

お前にあげたいものは 香りのよい健康と
かちとるにむずかしく はぐくむにむずかしい
自分を愛する心だ


               ー吉野弘ー

死刑反対・・・



宮崎勤、宅間守はすでに無能なる国家によって「あたら」処刑(抹殺)されてしまった。

もし今回の事件の加藤智大の死刑反対の署名を頼まれれば、わたしは少しも躊躇うことなく署名するだろう。

わたしの家族も、友人もそうだと信じている・・・

とりとめなく・・・




●自分自身の痛みや苦しみ、悩みを、他の人間の痛みや苦悩の裡に埋没させてはならない。

己の苦しみを重んぜよ・・・


●輪廻転生についてはよくわからない。

時々、生まれ変わって幸せになれるのだろうかと考える。
しかし生まれ変わって幸せになるのはわたしではない。
わたしはわたしのままで生涯幸せにはなれないのだろうか。

●宮崎勤処刑。わたしと同年齢。彼もまた不幸な生涯だった・・・

わたしには殺された人たちやその周囲の人たちよりも、
所謂「殺人者」といわれる人たちのほうが遥かに身近に感じられる。

わたしには彼らは身を以って社会に警鐘を鳴らしたように思えてならない。
17年かけても結局何にもわからなかった。
宮崎勤も、加藤某も、結局ただの殺人鬼としてしか扱われず、無駄死にしていくのだろう。

「冷血」のトルーマン・カポーティーのような人間は遂にこの国には現れない。

●「理由の如何を問わず殺人は許されない」

もちろん殺人は許されないことだけど、「理由の如何を問わず」というのはそうじゃないんじゃないか?
社会は、殺人の背後の「理由を探る」義務を負うのではないか?
「理由の如何を問わない」からいつまでも同種の犯罪が絶えないのではないか・・・

もちろん宮崎の理由、宅間の理由、加藤の理由はそれぞれ個人個人異なるだろうけれど、
多くの犯罪は社会の鏡だと思っている。
汚染された土や海が奇形な生物を生み出すように。
闇雲に排除すればいいと言うものでは決してない。

嫌いな言葉・・・




わたしの最も嫌いな言葉のひとつに

「苦しいのはおまえだけじゃない!」というのがある。

こういうことを言う人間が身近にいたら最悪だろうなと思う。

彼らはいったい何をいいたいのだろう?

「みんなおまえと同じように、いやおまえ以上に苦しんでいる人間はいくらでもいるんだ」

それがなんだ?

それでわたしの苦しみや悩みがいくらかでも軽くなるのか?

仮にどこかの誰かがわたしの何倍も苦しみ、悩んでいたとしても、

そんなことわたしには1%の救いにもならない。

いったい「苦しいのはおまえだけじゃない」という人間の意図はなんだろう?

苦しむ側もそんな言葉で自分の苦しみを抑圧することはない。

そんなの大人の、社会の、体制の思う壺だ。

きみは他ならぬきみの苦しみをもっともっと重んじるべきで、

もっともっと自分に素直になるべきだ。

このような言葉に屈してはならない。

好きな言葉・・・



今日は父の日だったんですね。

そこで思い出した言葉をひとつ。

「父がその子供にしてやれることは、その子の母を愛することだけだ」

・・・父と子が無理矢理に「仲良く」する必要などない・・・