子供の情景






街は変わらない方がいい。

1950年代のアムステルダム


Tokyo...


彼は53歳だった。50年以上も生きていると、古いものといえば自分よりも年嵩の人間だけになる。そんな都市に彼は生きていた。

消えない音


わたしが外に出られない理由は、何度も書いたけれど、外界の醜悪さ、「音」「臭い」「光」「色彩」などが生理的な不快感を引き起こすからだ。

けれども、これを「知覚」の「矯正」によって、「感じなく」させることをわたしは望んではいない。
醜いものを醜いと感じること、それによって外出が著しく困難になっても、自分の感受性を偽るよりはマシだ。

ブラック・ジャックに『消えた音』という作品がある。

田舎で先祖代々伝わる田畑を耕して地道に暮らしていた男がいた。
最近彼の村のすぐそばに飛行場が出来て、昼夜を問わず飛行機の騒音に悩まされるようになった。
いつかかれは飛行機の轟音を聞くと発作的に自分の鼓膜を破ってしまうようになる。
何回も鼓膜の再生手術をしても、彼は発作を繰り返す。医者はこれではどうしようもないからと転地療養を勧めるが、
先祖代々の土地を離れるわけにはいかない。

或る時、彼がまた発作を起こしたとき、たまたま外国から帰ってきて、飛行場の近くにいたブラック・ジャックが彼の鼓膜を手術することになった。
ブラック・ジャックの手術は特殊なもので、患者の耳に伝わる音がある一定の音量を超えると、鼓膜が自動的に開き、音が聞こえなくなるものだった。つまり彼は轟音が聞こえない耳を持つことになった。

数日後、男がブラック・ジャックの処にやってきて、鼓膜をもとに戻してほしいという。
音で苦しめられているのは自分だけじゃないというのを聞いて、BJは「他の住民にも同じ手術をしてくれと言うのか?」と訊く。けれども男は、そうではなく、問題は騒音をまき散らす飛行場の存在であって、音が聞こえなくなることじゃない、それでは何の解決にもならない、という。ブラック・ジャックは黙って男に手術室に入れという。

そう。問題は世界の醜さであって、それを自分の知覚から遮断することではない。
あるものを見えなくすることや、聞こえなくすること、無視できるようにすることではない。

それは戦場で、人を殺すことに無感覚になるような洗脳を施すことに等しい。

Blues Dictionary 【か行】


【か】

○ カレンダー Calendar

以前は年末になると伊東屋や丸善のカレンダー・フェアに足を運んでいたけれど、もう何年もカレンダーを買っていない。
カレンダーは未来の、来週の、明日の予定がある人のためのもの。
「訪う人もなく行く当てもなし」といった境遇には無用のもの。

○ 風 Wind

風には色がない。風には匂いがない。けれども風は花の香りや草の匂いを運ぶ。
秋になれば風はさまざまな色を宙に舞わせる。

風がなければ感じることができない匂いがある。
風がなければ見ることの出来ない色がある。

何故ならぼくらはいつでも自由に動けるからだをもっているわけではないのだから。

○ カミユ Albert Camus

"There is but one truly serious philosophical problem and that is suicide. "

「本当に重大な哲学的な問題はただひとつしかない。それは「自殺」だ」

○ カミユ Albert Camus

" Should I kill myself ? or have a cup of coffee ?

「自殺するか?それともコーヒーを一杯飲もうか?」

○ ガラスの動物園 The Glass Menagerie

○ ガラスの瓶 Glass Bottles

映画『鬼火』で、主人公アラン(モーリス・ロネ)の病室の鏡の前にはいろんなビンが雑然と並んでいた。アフターシェーブローションやオーデコロンもガラス瓶だったし、酔って帰ってきて水を飲む時も長いガラスの瓶からだ。

冷たく硬質な手触り、重み、窓から差し込む外光を反射させる表面、そしてビン同士が触れ合う時の音。
プラスチックに囲まれた生活はカサカサと乾いた音がする。

○ 回転木馬 Carousel

遊園地には水平に回る回転木馬と天に向かって上り地上に下りてくる観覧車があって、ぼくは高いところが好きなので観覧車を好むのだけど、子供たちは静的な観覧車よりもぐるぐる回る回転木馬が好きだ。

昔のモノクロ写真には素敵なメリーゴーランドの写真がたくさんある。イジス、ドアノー、ウィリー・ロニス・・・何故かパリの写真が多い気がする。ただ、観覧車でキスはできるけれど、回転木馬に乗ってキスはできない。無理にしようとして、落馬しないように・・・

○ 紙芝居 Picture Card Show

演劇や映画がごく一部の人の観るものであったときには、確かに動く絵は「紙の芝居」だ。
かみしばい。なかなかいい名前だ。そういう意味では絵本も漫画も紙芝居の一部かも知れない。

ぼくが子供の頃にはまだ紙芝居屋さんというのが近所の公園に来ていたっけ。
あれが最後の時期だったのかもしれない。
土門拳や田沼武能(たけよし)などの、昭和の子供たちを撮った写真には必ずと言っていいほど紙芝居屋さんと、群がる子供たちが写し出されている。男の子たちはみな(サザエさんの)カツオのような、そして女の子たちはワカメちゃんのような頭をして。

○ カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒ Caspar David Friedrich

ドイツ・ロマン派の画家。「廃墟」や「月夜」「森」などのロマン派的、静的なモチーフの絵を
遺した。印象派の対極にいるような画家。
フリードリッヒに春の日差しは似合わない。
もっとも好きな画家のひとり。

○ 枯れ葉 Autumn Leaves

「焚くほどは 風が持てくる 枯れ葉かな」一茶

昔、枯れ葉は焚火にするものだった。いつの頃からだろう、ゴミのように(ゴミとして?)ビニール袋に押し込められるようになったのは。―― 秋の情緒と一緒に。

○ 案山子 Scarecrow 

『オズの魔法使い』に出てくるカカシの頭には藁がいっぱい詰まっていて脳みそがない。「ああ、いろんなことを考えることが出来たら!」といつも考えている。

○ カミング・ダウン・イン・ザ・レイン Comin' Down in The Rain 

大好きな曲。ナンシー・グリフィスの1993年のアルバム『Other Voices Other Rooms』に入っているさびしいバラード。
オリジナルはバディ・モンドロック。

○ 蛾 Moth 

蛾(!)と聞いただけで嫌ってはいないか?

○ 鏡 Mirror 

どの映画(或いは小説)だったか忘れたけれど、病気でいつも寝たきりの子供が、手鏡を使って庭の花の間を舞う蝶を見たり、風に流れて姿を変える空の雲を眺めたりするシーンが印象に残っている。

「空は牢獄の窓から見た時が一番美しい」という言葉があったけれど、鏡の中の世界はきっと同じように美しいはずだ。

○ カラス Crow

女性の髪の美しさを譬えるのに、「髪はカラスの濡れ羽色」という。素晴らしい比喩。

○ 学校 School

昔「メントス」というミントのコマーシャルで、「放課後が僕らの学校だった」というコピーがあった。ほんとうにそう思う。

○ かたつむり Snail

「かたつむり そろそろのぼれ 富士の山」一茶

なんとも気宇宇壮大な歌。
永島慎二の漫画で、毛虫が、尺取り虫みたいに伸びたり縮んだりしながらのそのそと這いながら、
「世の中で・・・この俺くらい・・・のろまは・・・・いないと・・・・思っていたけどさ・・・
上には・・・・上が・・・・いるもんだねぇ・・・」とつぶやくと、そこは亀の背中の上だったというのがあるけど、カタツムリはそれ以上だ。

カタツムリが富士山を登っているという絵は描けないだろう。
カタツムリに焦点を合わせると、富士の山を登っていることはわからないし、富士の姿がわかるほどに引いてしまうとカタツムリが見えなくなってしまう。もっとも漫画のように「ここ、富士山登頂口」という立て札でもあれば別だけど。
ミニマムとマキシマムを同じ画面に同時に描出するということはできない。


【き】

○ キス Kiss

海辺に停めた車のバックミラー写るキスをする恋人たちの笑顔。エリオット・アーウィットの撮った1955年のカリフォルニア、サンタ・モニカ。最も有名なキスの写真の一枚。

先日あるブログで見つけた「どのように人を殺すか?」How to murder ?
そこにはこう書かれていた。

" Kiss them once, and never again... " 嗚呼、Never More... 二度とない・・・

○ 利き腕 Kiki Ude

鉛筆や箸を持つのは右手。自販機に小銭を入れるのは左手。ボールを投げるのは左手。
バッターボックスは右。ドラムは左利き。自動改札に切符を入れるのは左手。コーヒカップを持つのも左手。歯ブラシ、カミソリは右手・・・

ところで英語で、I'm a left handed man というと、「どうもぼくは不器用で」という意味らしい。古いモノクロ映画で観たシーン(セリフ)なので、今どきはそんな風には言わないのかもしれないけど。

○ キャロル・キング Carol King

キャロル・キングでは『タペストリー』の中の "So Far Away" という歌もいいけれど、
ザ・ドリフターズが歌った「アップ・オン・ザ・ルーフ」"Up On The Roof" が好きだ。

「この古い世界がぼくを落ち込ませ、人があまりに多過ぎると感じる時
ぼくはひとりで屋根に上る。
屋根に上れば下の世界の嫌なことは忘れられる・・・」

ビートルズの「オクトパス・ガーデン」が海の底なら、これは屋根の上。
引きこもり、とは言わなくても、人の世界から逃げ出す場所があるといいね。

○ 傷モノ Dameged

モノに傷は困るけれど、人間の心に関しては傷がある方がいい。
キズのついたレコードに価値がないのとは反対に、傷のないピカピカの人間は二束三文の値打ちしかない。

○ キャンドル Candle

キャンドルを使った印象的な映画として思い出すのは、アンジェイ・ワイダ監督の『ダントン』。フランス革命時のダントン派とロベスピエール一派の権力闘争を扱った歴史ものだが、ほとんどが室内のシーンで、彼らの衣装とともに、キャンドルの明かりに照らし出されたジェラール・ドパルデューの表情、一挙一動が素晴らしかった。

もうひとつ、これも主演はドパルデューだが、ポランスキー監督の『記憶の扉』。
古城のような警察署で、ドパルデューを取り調べるポランスキー演じる警察署長。
建物が古いせいか、辺鄙な田舎にあるせいか、雨漏りはひどいしすぐに停電する。
部屋を明るくするために、二人が向き合う机の上、そして壁際に灯されたたくさんのキャンドルの明かりが物語を一層幻想的にする。

フランソワ・トリュフォーに「キャンドル三部作」というのがあることを知ったのはつい最近のこと。『恋のエチュード』『アデルの恋の物語』そして『緑色の部屋』

『恋のエチュード』を最後に観たのはもう20年ほど前のことになるけど、何故か「とても美しい映画」という印象だけは強く残っている。
『緑色の部屋』は中古のビデオで持っていたが、観ないうちに処分してしまったらしい。そしてなぜかこの作品だけは未DVD化。嗚呼!



絵画とキャンドルというと、ジョルジュ・ド・ラトゥールということになりそうだけど、
ぼくはむしろ19世紀のオランダの画家、ペトルス・ヴァン・シェンデルを好む。
夜のマーケット。月の光の下、キャンドルの明かりで買い物をする女性たちの姿は息を飲むほどに美しい。いや、うつくしいのは市場を歩く女性たちや物売りの男たちではなく、優れた夜の風景画としてなのだが。

○ 銀座 Ginza

フランス+中国

○ 旧仮名遣い Old Character 


【く】

○ 草 Grass

草の上を、くさむらの中を歩くのが好き。草笛の音が好き。草のちょっと湿った匂いが好き。

ロベール・アンリコの『暗殺の詩』という映画で、酔ったフィリップ・ノワレが牛乳を、(もちろんガラスの大きなビンから)飲むシーンがある。「牛乳は大好きだ、草のにおいがする。クローバーのにおいがする」と。
そう。乳牛も草を食べて乳を作る。ぼくたちは緑の草からできた牛乳を飲みたい。

○ 蜘蛛 Spider

ルドンの黒い足長蜘蛛の絵が好き。

朝露や雨粒に濡れた蜘蛛の巣が好き。

女郎蜘蛛という綺麗な蜘蛛がいる。志ん生は「花魁蜘蛛」と呼んでいたっけ。

○ 狂っている Crazy

「狂っていないというのは、それはつまり、別の形で狂っているのであって、それほどまでにわれわれは全て狂っているのだ」-パスカル

○ クオ・ヴァディス Quo vadis ? 

「われわれは何処へ行くのか?」

○ 蔵の中 Kura no Naka 

横溝正史作の見事な耽美的なミステリー。複雑な構造が眩惑的だ。

○ 薬 Drug

気分がハイになるくすりが欲しい。
頭のよくなるくすりが欲しい。

ローリング・ストーンズに『マザーズ・リトル・ヘルパー』という歌がある。
「小さな黄色いくすり」だって。ちなみにこれはジアゼパム(Diazepam)という薬で、
アメリカでは「バリウム」(Valium)と呼ばれているらしい。

ある薬剤師のブログによると、ジアゼパム(Diazepam=ダイアゼパム)は向精神薬のひとつで、日本では処方箋がないと手に入らない薬だが、たまに外国の人がドラッグストアに「バリウムはありますか?」と訊いてくることがあるので、その旨説明しましょう、とある。
そして「造影剤のバリウムは全く別のもので、スペルはBarium」・・・ですって。

○ 「黒の」シリーズ Kuro Series

田宮二郎の「黒」シリーズ、好きだなぁ。『黒の超特急』『黒の試走車』『黒の駐車場』・・・


【け】

○ ゲイ Gay

ゲイの男性は芸術家肌で繊細だとよく言われている。
『蜘蛛女のキス』は未見だけれど、キューバ映画の『苺とチョコレート』はゲイの男性とヘテロの兵士の友情の物語でとてもよかった。

ゲイの友達がいたらいいと思う。

○ 現金 Cashu

古い外国映画を観ていて、いつもカッコいいと思うのは、カフェで、バーで、くしゃくしゃに丸めた札をポイッとテーブルの上に投げて席を立つシーン。あの無造作さがたまらなくいい。
本当に「紙屑」のように扱ってる。シワシワの札を取り出して「おい、ここに置くよ」と言って店を出て行く。

カードの支払なんて、味も素っ気もないというか、身も蓋もないというか・・・

○ 現実 Reality

テネシー・ウィリアムスの戯曲『欲望という名の電車』や『ガラスの動物園』では、現実の世界で生きることの出来ない主人公が描かれていて、強く共鳴してしまう。

○ ケチャップ Ketchup

オムライスの卵の上にケチャップで絵を描くのは、ぼくだけ?

【こ】

○ ゴヤ Francisco de Goya

大きな穴から顔だけ出している仔犬の絵。
雲の上に上半身を突き出してのし歩いている巨人。
極小と極大。

○ コーヒー Coffee

" I don't drink coffee I take tea my dear I like my toast done on one side ..."

「コーヒーは要らない。紅茶をたのむよ。トーストは片面だけ焼いて...」
スティングのEnglish Man In New Yorkの冒頭の歌詞。
なるほどこれが英国風?

○ ゴッホ Van Gogh

ゴッホ。ヴァン・ゴッホと言えば弟のテオもテオ・ヴァン・ゴッホだ。
テオがいなければヴィンセントもいなかった。
「ゴッホ」という時には2人のヴァン・ゴッホのことを言うのだ。

○ 今夜はトーク・ハード Pump Up The Volume

クリスチャン・スレーター主演、1990年の青春映画。

郊外のある町、夜の10時になると謎の高校生が海賊放送を流し始める。
優等生も不良たちも彼の放送に夢中になっている。けれども誰も「彼」が何者なのかは知らない。

彼の番組のオープニングで流れる曲はレナード・コーエンの「エブリバディ・ノウズ」
地の底から響いてくるような声、不思議なメロディー。

こういう放送があれば、ウン、聴いてみたい。

○ コアントロー Cointreau

フランス製のリキュール。アルコール分約40度

昔、有楽町駅前の電気ビル9階の記者クラブのバー&レストランでアルバイトをしていた。
珍しくカウンターに入った時、ちょうどひとりで飲んでいた老紳士が、自分の飲んでいたコアントローのグラスを差し出して、「ちょっと飲んでみなよ」と薦めた。
松脂のような強い香りがしたようだった。
ひとくち口にするとアマイ。

以来、コアントローと、同じオレンジの香りのする、より甘口の(よりお高い)グランマルニエが、お気に入りのお酒になった。

Blues Dictionary


ミュージシャンで音楽プロデューサーの渚十吾という人の、『ストロベリー・ディクショナリー』という本が1997年に「リブロポート」から出版された。

副題に「永遠の少年少女たちに捧げるスタイルブック」とある。
内容は「春」「夏」「秋」「冬」4つのパートに別れて、それぞれ「あいうえお」順に一文字につき6つの見出し(語句)を記した辞典だ。
ほとんどが「映画」「音楽」「本」「店」などにまつわる固有名詞で占められている。

例えば「春」の【は】の場所には「ハシシ」とあり、「火にかけた鍋を摑むとアチチ」とか、【き】の「鬼太郎のおやじさん」には「おい鬼太郎、ちょっとこっちにきたろう!」などと、そこここに昼なお寒いおやじギャグもちりばめられたスタイルブックだけど、こういうのを見てると、自分なら、「あ」と言えばどんなことを思いだすだろう、「い」と言えば誰のことを考えるだろう、という好奇心が頭をもたげてくる。

『ストロベリー・ディクショナリー』は今から20年前の本のこととて、随分古くなってしまったトピックもあるけれど、ちょっとこれに倣って「Blues Dictionary」(仮題)を考えてみようと思う。

とりあえず試みに「ア行」から。

一文字につき6つの言葉、う~ん。10以上思い出せる文字もあれば、やっとふたつかみっつといった文字もありそうだ・・・
あまり数にはこだわらずに行こう。

ちなみにBlues DictionaryのBlueとは、このブログを通じての昔からのネット上での友達がわたしをblueさんと呼ぶことから。青さ、青臭さの意味。そしてBlues =憂鬱な気分から。

◇◇ ◇◇

【あ】

○ アイ・アム・ア・ロック I am a Rock 

凍てつくような孤独を歌ったサイモン&ガーファンクルの歌。

I am a rock, I am an island  ぼくは岩、ぼくは島

And a rock feels no pain だって岩は傷つかない
And an island never cries そして島は泣くことはない

" No Man Is An Island..." (John Donne) ではない。
実は、Someone is always an island.

○ アフォリズム Aphorism

「箴言」とも。 一二行の鋭く閃きに溢れる文章。
芥川龍之介の『侏儒の言葉』や、エミール・シオラン、ニーチェの著作など。
皮肉屋が好むスタイル。スパイスの効き具合、ひねくれ加減がポイント。

例)"いつの日か、最早自分自身を軽蔑することもできないような、もっとも軽蔑すべき人間たちの時代がやってくるだろう" -ニーチェ

○ 秋 Autumn 

一番好きな季節。
「秋はわたしの春だ!」と、劇作家のアウグスト・ストリンドベリは言った。

○ 相合傘 Aiai Gasa

「傘、世界で一番小さな二人だけの屋根」と書いたのは誰だったろう?

○ 愛すれど心さびしく The Heart Is a Lonely Hunter

カーソン・マッカラーズ原作の1968年のアメリカ映画。

聾唖の青年シンガーは、下宿の娘に恋心を抱くが、思春期の少女の気持ちと障害を持った彼の心はなかなか通じ合わない。これは健常者同士でも同じことだけれど、シンガーは結局孤独の闇に閉ざされて自ら命を絶つ。

「ひとはあまりにも壊れやすく、わたしは彼らをどのように愛すればいいのかと途方に暮れる」というシモーヌ・ヴェイユの言葉を思い出す。
大好きな映画。

○ 穴 Hole 

靴下に空いた穴、ズボンの膝に空いている穴、手袋の穴。
貧しさを尊ぶわけではないけど、そんな穴には詩情があった。

ルイス・ブニュエル監督の映画『昼顔』で、ヤクザな、それでいて一途にセヴリーヌ(ドヌーヴ)を愛するマルセル(ピエール・クレマンティ)が彼女を掻き抱き、ベッドに倒れ込むシーンで靴下のかかとに穴が開いていた。ただそれだけで彼の愛の深さを感じさせる。


【い】

○ イエロー・ブリック・ロード Yellow Brick Road 

『オズの魔法使い』で、夢をかなえてくれる大魔王のいるエメラルド・シティーへ続く黄色いレンガの舗道。

○ イマジン Imagine 

ジョン・レノンの歌。
1980年頃、高校時代、世界史のノートの最後に歌詞を書き写していた。わかい教師に「これは何だ?」と訊かれ、怒られるのかと思ったら、「最近の歌なんかよりズットいいよな」と言われた。

 井之頭公園 Inogashira Park 

友達がいたころ、時々散歩に行った。道を渡ったところにある付属の動物園で「天竺鼠」を抱くのが好きだった。
いまでも抱けるのかしらん?

 石畳 Carbon Street

石畳の道の上に馬車を曳く馬のひづめの音が響く。それがわたしにとってのロンドン。
パリの道に石を敷き詰めてゆく作業をしている人たちの古い写真を観たことがある。
下着のシャツ一枚で、でもベレー帽を被って。

 引用 Quotation 

自分の言葉よりも自分の言葉である人の言葉。

 イージー・カム・イージー・ゴー Easy Come, Easy Go

「簡単に手に入ったものは簡単に失われる」・・・ほんとうにそうだろうか・・・?

 イエスタデイ・ワンスモア Yesterday Once More 

カーペンターズの歌。「なつかしい日々よもう一度・・・」

 生きる Ikiru 

1952年の黒澤明監督作品

主人公の市役所の市民課課長である志村喬が、自分の作った児童公園のブランコに乗り、雪の降る夜に「ゴンドラの歌」をか細い声で歌う。その夜彼は天国へ召される。

いのち短し 恋せよ乙女
紅き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日という日の ないものを・・・

 色 Color 

「目にみえでうつろうものは 世の中の 人のこころの 色にぞありける」 -小野小町


【う】

○ ウォーカー・エヴァンス Walker Evans 

アメリカの写真家。大恐慌時代のアメリカの人々や街並みを写した。
何枚かのセルフ・ポートレイトがあるが、俳優にしたいくらいの男前。

○ ウィリアム・デ・クーニング Willem de Kooning

アメリカの抽象表現主義の画家。アンディ・ウォーホールが嫌いらしい。
これもまた俳優で成功するくらいのジェントルな二枚目。

○ ウニカ・チュルン Unica Zürn 

ハンス・ベルメールの妻。とてもユニークなペン画を描く。

○ ウチンチ Uchin-Chi 

『あたしンち』という漫画があったけれど、子供の頃、自分の家のことを「うちんち」という子供たちが結構いたように思う。「うちんち」。漢字ではどう書くのだろう?「家ん家」?

○ 自惚れ Unubore 

「自惚れをやめれば他に惚れ手なし」とか。
他に惚れ手が無いときには自分で惚れてやらなきゃ・・・
でも惚れ手が大勢いる人の自惚れはみっともない。


【え】

○ エジソン Thomas Edison

「この蓄音機は雑音がします、けれどもよく聴くとその雑音の底に本当の深い音が聴こえるのです」とエジソンは言ったという。
今はレコードのプチプチというノイズ自体が心地よく聴こえる。

○ 駅 Station

やかましく眩しい。
苦手な場所。

○ 笑顔 Egao

この国では選挙の候補者のポスターを見るとみんな満面の笑みを浮かべている。何がそんなにうれしいのだろう?国を憂うという貌は遂にひとつも見当たらない。

そういう笑顔は嫌いだが、人を笑わせるっていうのは素敵なことだ。

○ 永チャン Yazawa Eikichi

以前渋谷のTsutayaでエスカレーターに乗った時、頭の上、つまり上の階のエスカレーターの底(?)に矢沢永吉の「名言」がいろいろと書き連ねられていて閉口した。
人生について説教を垂れたり勲章を貰ったりするようになっちゃもうおしまいだ。
レニー・ブルースは、「年老いたヒップスターほど惨めなものはない」と言っていたけど、
ロック・スターも同じ。とはいえシオランの言うように「誰もが夭折の幸運に恵まれているわけではない」のだ。

○ エビス・ガーデン・プレイス Yebisu Garden Place 

ここがオープンしたての1990年代に2年ほどアルバイトで通った。
いくつかの意味でわたしにとって忘れられない場所。

いまはもう遠い昔。

○ エスエム SM 

M「叩いてくれ!」

S「いやだ!」


【お】

○ オズの魔法使い The Wizard of Oz

大好きな1939年のミュージカル映画。
脳のないカカシ、ハートのないブリキ男、勇気のないライオンと、家に帰りたいドロシーがオズの大魔王に願いを叶えてもらおうとエメラルド・シティーに向かう。

If I Only Had A Brain/Heart/ Nerve 、「もしも脳みそが(心が、勇気が)あったなら」は、わたしのテーマ・ソング!

 鬼火 Le Feu follet

1963年のルイ・マル監督のフランス映画。

「ぼくには生活力がない」
「でもこころがあるわ」
そう言われたアランは、心臓を打ち抜いて自殺する。

○ 尾崎放哉 Ozaki Housai 

どんな画家も彼の句のような鮮やかな絵を描くことはできない。

 お粥 Okayu

「お粥は、やさしいごはんです」というCMがあった。

○ 親 Parent

「親になることは容易だが、親であることは難しい」とは、山本有三原作の映画『波』の台詞。

 桜桃の味 Taste of Cherry

1997年、アッバス・キアロスタミ監督作品。

剥き出しの赤土ばかりの山道を男が車で走っている。人に出会うと彼は声をかける。
「何処まで行くんだ?送っていくよ」車に乗った人たちとふたことみこと言葉を交わした後に彼はこう切り出す。
「実はキミに頼みがある。明日の朝、わたしはこの山の中腹に掘った穴の中に寝ている。キミはぼくに二度、声をかけてくれ。バディさん。バディさん!もし返事がなければこのスコップで20杯、土をかけてくれ。そうすればきみは大金を手にすることができる。キミの助けが必要なんだ」

人は人を救えるか?人を助けるということは?そんなことを考えさせられる作品。

 お台場 Odaiba

20年ほど前、ゆりかもめが出来て間もないころ、終点の一つ手前の「国際展示場」でアルバイトをしていた。
当時はまだお台場一帯は完成していないビルやホテルがたくさんあった。
休憩時間に、先輩(上司)のマウンテン・バイクを借りてお台場の草原を疾駆していた。
夕焼けがきれいだった。
遠い思い出。

 音喩 Onyu

石畳を闊歩する馬車の音、草原をわたる風の音はとても「音喩」(擬音)で表すことはできない。全てを視覚と記号(文字)で理解し捉える必要はない。音は、もっと深いところに届いている。

Walling in and Walling out...


壁を造る。けれども壁を造った者は、果たして壁の内側にいるのか?それとも「閉めだされた」側に立っているのか?

自分の世界を囲い込むということは、同時に自分の世界に属さないものを囲いだす、ということだ。
しかしその境界はどこにある?

例えば一本の道のように、中央に白いラインが引かれていて、この線から向こうは全て自分の目指す方向、自分の走っている方向と反対の方角に向かって流れている・・・そのような境界がわかるのだろうか。

オスカー・ワイルドはいう。 " To Define is to limit " 「定義することは限定することだ」
「定義する」=「名づける」でもいいだろう。「わたし」が「わたし」であるということは、すなわち、わたしの中に壁を=限界を設けることだろう。
その「線」を一歩踏み越えたら、どうなる?それはつまりわたしの世界が広がるということ、言い換えれば、わたしとその部分の世界が同化するということだ。では「壁」を持たない人間とはなんだ?

わたしには、どうしても「世界」に重ねることができない手がある。

百の目


詳しくはないのだけれど、過敏肌というのがあるらしい。肌が刺激に敏感だということだろうが、どのような刺激に敏感なのだろう?
目や鼻、唇のように、粘膜が外気に触れている場合や、耳も含めた感覚器官が、外界の信号=刺激に対して過敏であるということなら分かるのだが、表皮が過敏というのはいまひとつわかりにくい。

人間の「五感」は「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」そして「触覚」だが、触覚とは必ずしも「手」「掌と指」で触れることのみを意味するわけではないだろう。
他の四つの「感覚」は、「視る」「聴く」「嗅ぐ」「味わう」という風に能動的だが、触覚に関しては「触れる」と「触れられる」はほぼ同義である。


あなたの
髪に触れる
頬に触れる
唇に触れる

肩に触れる
腕に触れる
胸に触れる
お腹に触れる

脚に触れる
膝に触れる
性器に触れる

けれども決して触れないもの
それはあなた自身

誰の詩だったろう、今思い出せないのだが、そんな詩があった。

彼女の手は彼のからだに触れているけれど、同時に彼の身体のさまざまな部位が彼女に触れている。



花粉にも敏感な肌というのがあるのだろうか?この時期、花粉症で目や鼻がたいそう辛い人も多いだろう。そういえば水木しげるの妖怪図鑑に「百目」という妖怪があって、この妖怪はその名の通り身体中至る所にに目がある。元になったのは北斎派の「百々眼鬼」(どどめき)という妖怪らしい。
今のように花粉症などというアレルギーがある時代には百々眼鬼も百目もさぞ大変だろう。

目があるということと、「視る」ということは同じことではない。感官を持つことと、感じることは同じではない。視るということは、本来は観ている世界に意味づけをすることだ。
世界は単に物理的な刺激の集合体ではなく、それぞれの主体にとって快・不快の感覚を伴い、同時に意味を持って立ち現れる。

百の目を通して、百もの違った位置・角度から世界がわたしの中に入り込んで来たら、全身に錐をもみ込まれるような感覚のなかで、わたしはきりきり舞いをしてしまうだろう。

ブルトンに焦がれて・・・


時間というものは、時計から生み出されるもののように感じることがある。
お気に入りの時計を眺めていると、そこからオルゴールから流れてクルメロディのような、ゆったりとした、ぬくもりのあるやさしい時間が紡ぎ出されてくるような気持ちになる。

昔から古道具やガラクタの類がすきである。
豪華で高価なアンティークよりも、ジャンクという呼び名にふさわしいようなものに惹かれる。



これはフランス製の目覚まし時計で、文字盤の大きさは約10センチ。
時計本体の高さは約25センチ。
時を示す文字盤の数字の書体がとてもいい感じだ。




デスクライトにはこれがいい。アール・デコ時代のテーブルランプで、パラシュートで落下してくる女の子のデザイン。ほんのりと灯った明かりの下で本を読んだり写真集や画集を眺めたり。

詩を書けば空から落下傘を付けたミューズ霊感を授けにが舞い降りてくるだろうか?


これもとてもうつくしいシェードを持ったテーブルランプだ。
1912年のもので、高さは36センチ、ランプの傘の部分は幅26センチ。
美しいランプシェードはそれ自身が1枚の絵のようで見ていて飽きることがない。
本を読む代わりにずっと電燈の傘を眺めることになりそうだ。



最後に人形。このなんとも表情のつかみきれない飄々とした顔を持った
ガーナの木製の人形。
体調32センチ。
これを「小さな哲学者」と名付けよう。

多様性の救い


見逃している映画が2本ある。1本は、昨年、「岩波ホール」で上映された「大いなる沈黙へ」。
これはフランスのある修道院の生活を描いたドキュメンタリー・・・
ここでの生活はすべて自給自足。私語は日曜日に4時間のみ許されている。無論女性はいない。
19時に就寝後、23時に起きて、3時間ほど祈りの時間をもつということ以上に、週に4時間しか口を利くことができないということに驚いた。確かに日本にも、どこの国にも、口を利く相手もいないような孤独な生活を送っている人は少なくない。俳人尾崎放哉も、小豆島の小さな寺で、独居無言の生活をおくっていた。だからこそ頻繁に手紙を書いた。

けれどもやはり生涯をそのような環境のうちに生きるという選択をする人たちの背景にはどんな心情が隠されているのだろう。聖書以外の本を読むことは出来るのだろうか?外部の人たちとの手紙のやり取りは許されているのだろうか?祈り以外の慰藉、生きがいは・・・

ほぼ3時間近い映画で、音楽、ナレーション、照明もなし。無論そこで暮らしている人へのインタビューなどないだろう。機会があれば是非見てみたい映画である。

もう一本は、ずいぶん古いアメリカ映画、ハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック。目撃者」
ここではアーミシュの生活が描かれている。アーミッシュも、いわゆる「文明の利器」など使わずに自給自足の生活を送るキリスト者たちである。

そういう「現代」「現在」の主流といわれる生活とは全く無縁に、別の生を営んでいる人が存在することは救いであり、慰めである。ことに日本という国のように「多様性」というものがほとんど死語になっている国に生きる者にとって、消費とテクノロジーの千年王国に住むことを当たり前とし、それを「快適」「便利」とさえ思っている人たちのただなかから、遠く消費とも、テクノロジーとも無縁に生きている人に思いをはせることはなんという救いだろう。
そこには深い思索があり、哲学が存在する。

更に言えば、この地球上に「ヒト」ではない生物たちが存在することもわたしにとっては救いである。
「豚に真珠」とか「馬の耳に念仏」などというが、それは「ヒト」の思い上がった勝手な言いぐさであって、真珠をありがたがっているのは単にヒト(だけの)価値観に過ぎないし、ヒト以外の生き物には、当然ながら、真珠もダイヤも何の価値もない。ヒトだけがありがたがっているものを無化し、ヒトとはまるで異なる価値圏の中で暮らすいきものたちがいることはなんという安息だろうと思う。


より自然に近い生き方をしている「彼ら」のほうがより「人間らしい」存在だと思っている。

幸福について ー答えの出ない問いを抱いて

くまのプーさんの作者である、A.A.ミルンの言葉につまづいています。

その言葉とは、

“How lucky I am to have something that makes saying goodbye so hard.”

「喪うことがこんなにもつらく悲しいものをもつことはなんて幸福なことなんだろう」

うしなうことがそれほど悲しい物(人)を持っているということはそれほど幸福なことなのか?
正直わたしにはわかりません。

わたしは40歳から46歳までの間、生まれて初めて本当の「友達」と呼べる人を持っていました。年上の素敵な女性でした。
けれどもお互いに心に問題を持っている者同士、結局は友情は自然消滅してしまいました。
いや、それは卑怯な言い草で、実際はわたしの鈍感さ故に彼女を深く傷つけていたのでした。

その後のわたしは今に至っても、まったく廃人のようになりました。
彼女と6年間、いろんなところに出かけましたが、今はもう美術館にも公園にも映画にも行きません。多分これからもひとりで何処かに、どうしても必要な「用事」以外の事で。。。つまり昔のように「楽しみのために出かける」ということはもうないでしょう。
もう友達はいないのですから。

それでも「失うことがこんなにもつらいと思える人を持つことは幸運なこと」と、わたしは言えるのかどうか?

上のことばを考えるとき、人は失ってからあじわうのと等量の幸福を、「それ」を持っているときに感じることは出来ないのではないか、などと思ったりします。

◇ ◇ ◇ 

”You can not love anything more than something you miss ”

「誰しもうしなったもの以上に何かを愛することはできない」

アメリカの若手作家、ジョナサン・サフラン・フォアの言葉です。

人はうしなったときにはじめてその価値、それがいかに自分にとってかけがえのないものであったかに気づく、というのは真実・・・少なくともわたしにとってそれは真実だと思います。
もし誰もが「今そのとき」の幸せを心から実感できないとしたら、ひとの幸福は何処に存在するのでしょう。

この二つの言葉を考え合わせるとき、
わたしの「幸福」はどこにあったのかと、決して癒えることのない喪失感と、孤独の闇のただ中で、深く瞼を閉じずにはいられません。
時に、肩より深く頭(こうべ)をたれて。