多様性の救い


見逃している映画が2本ある。1本は、昨年、「岩波ホール」で上映された「大いなる沈黙へ」。
これはフランスのある修道院の生活を描いたドキュメンタリー・・・
ここでの生活はすべて自給自足。私語は日曜日に4時間のみ許されている。無論女性はいない。
19時に就寝後、23時に起きて、3時間ほど祈りの時間をもつということ以上に、週に4時間しか口を利くことができないということに驚いた。確かに日本にも、どこの国にも、口を利く相手もいないような孤独な生活を送っている人は少なくない。俳人尾崎放哉も、小豆島の小さな寺で、独居無言の生活をおくっていた。だからこそ頻繁に手紙を書いた。

けれどもやはり生涯をそのような環境のうちに生きるという選択をする人たちの背景にはどんな心情が隠されているのだろう。聖書以外の本を読むことは出来るのだろうか?外部の人たちとの手紙のやり取りは許されているのだろうか?祈り以外の慰藉、生きがいは・・・

ほぼ3時間近い映画で、音楽、ナレーション、照明もなし。無論そこで暮らしている人へのインタビューなどないだろう。機会があれば是非見てみたい映画である。

もう一本は、ずいぶん古いアメリカ映画、ハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック。目撃者」
ここではアーミシュの生活が描かれている。アーミッシュも、いわゆる「文明の利器」など使わずに自給自足の生活を送るキリスト者たちである。

そういう「現代」「現在」の主流といわれる生活とは全く無縁に、別の生を営んでいる人が存在することは救いであり、慰めである。ことに日本という国のように「多様性」というものがほとんど死語になっている国に生きる者にとって、消費とテクノロジーの千年王国に住むことを当たり前とし、それを「快適」「便利」とさえ思っている人たちのただなかから、遠く消費とも、テクノロジーとも無縁に生きている人に思いをはせることはなんという救いだろう。
そこには深い思索があり、哲学が存在する。

更に言えば、この地球上に「ヒト」ではない生物たちが存在することもわたしにとっては救いである。
「豚に真珠」とか「馬の耳に念仏」などというが、それは「ヒト」の思い上がった勝手な言いぐさであって、真珠をありがたがっているのは単にヒト(だけの)価値観に過ぎないし、ヒト以外の生き物には、当然ながら、真珠もダイヤも何の価値もない。ヒトだけがありがたがっているものを無化し、ヒトとはまるで異なる価値圏の中で暮らすいきものたちがいることはなんという安息だろうと思う。


より自然に近い生き方をしている「彼ら」のほうがより「人間らしい」存在だと思っている。

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