ブルトンに焦がれて・・・


時間というものは、時計から生み出されるもののように感じることがある。
お気に入りの時計を眺めていると、そこからオルゴールから流れてクルメロディのような、ゆったりとした、ぬくもりのあるやさしい時間が紡ぎ出されてくるような気持ちになる。

昔から古道具やガラクタの類がすきである。
豪華で高価なアンティークよりも、ジャンクという呼び名にふさわしいようなものに惹かれる。



これはフランス製の目覚まし時計で、文字盤の大きさは約10センチ。
時計本体の高さは約25センチ。
時を示す文字盤の数字の書体がとてもいい感じだ。




デスクライトにはこれがいい。アール・デコ時代のテーブルランプで、パラシュートで落下してくる女の子のデザイン。ほんのりと灯った明かりの下で本を読んだり写真集や画集を眺めたり。

詩を書けば空から落下傘を付けたミューズ霊感を授けにが舞い降りてくるだろうか?


これもとてもうつくしいシェードを持ったテーブルランプだ。
1912年のもので、高さは36センチ、ランプの傘の部分は幅26センチ。
美しいランプシェードはそれ自身が1枚の絵のようで見ていて飽きることがない。
本を読む代わりにずっと電燈の傘を眺めることになりそうだ。



最後に人形。このなんとも表情のつかみきれない飄々とした顔を持った
ガーナの木製の人形。
体調32センチ。
これを「小さな哲学者」と名付けよう。

多様性の救い


見逃している映画が2本ある。1本は、昨年、「岩波ホール」で上映された「大いなる沈黙へ」。
これはフランスのある修道院の生活を描いたドキュメンタリー・・・
ここでの生活はすべて自給自足。私語は日曜日に4時間のみ許されている。無論女性はいない。
19時に就寝後、23時に起きて、3時間ほど祈りの時間をもつということ以上に、週に4時間しか口を利くことができないということに驚いた。確かに日本にも、どこの国にも、口を利く相手もいないような孤独な生活を送っている人は少なくない。俳人尾崎放哉も、小豆島の小さな寺で、独居無言の生活をおくっていた。だからこそ頻繁に手紙を書いた。

けれどもやはり生涯をそのような環境のうちに生きるという選択をする人たちの背景にはどんな心情が隠されているのだろう。聖書以外の本を読むことは出来るのだろうか?外部の人たちとの手紙のやり取りは許されているのだろうか?祈り以外の慰藉、生きがいは・・・

ほぼ3時間近い映画で、音楽、ナレーション、照明もなし。無論そこで暮らしている人へのインタビューなどないだろう。機会があれば是非見てみたい映画である。

もう一本は、ずいぶん古いアメリカ映画、ハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック。目撃者」
ここではアーミシュの生活が描かれている。アーミッシュも、いわゆる「文明の利器」など使わずに自給自足の生活を送るキリスト者たちである。

そういう「現代」「現在」の主流といわれる生活とは全く無縁に、別の生を営んでいる人が存在することは救いであり、慰めである。ことに日本という国のように「多様性」というものがほとんど死語になっている国に生きる者にとって、消費とテクノロジーの千年王国に住むことを当たり前とし、それを「快適」「便利」とさえ思っている人たちのただなかから、遠く消費とも、テクノロジーとも無縁に生きている人に思いをはせることはなんという救いだろう。
そこには深い思索があり、哲学が存在する。

更に言えば、この地球上に「ヒト」ではない生物たちが存在することもわたしにとっては救いである。
「豚に真珠」とか「馬の耳に念仏」などというが、それは「ヒト」の思い上がった勝手な言いぐさであって、真珠をありがたがっているのは単にヒト(だけの)価値観に過ぎないし、ヒト以外の生き物には、当然ながら、真珠もダイヤも何の価値もない。ヒトだけがありがたがっているものを無化し、ヒトとはまるで異なる価値圏の中で暮らすいきものたちがいることはなんという安息だろうと思う。


より自然に近い生き方をしている「彼ら」のほうがより「人間らしい」存在だと思っている。

幸福について ー答えの出ない問いを抱いて

くまのプーさんの作者である、A.A.ミルンの言葉につまづいています。

その言葉とは、

“How lucky I am to have something that makes saying goodbye so hard.”

「喪うことがこんなにもつらく悲しいものをもつことはなんて幸福なことなんだろう」

うしなうことがそれほど悲しい物(人)を持っているということはそれほど幸福なことなのか?
正直わたしにはわかりません。

わたしは40歳から46歳までの間、生まれて初めて本当の「友達」と呼べる人を持っていました。年上の素敵な女性でした。
けれどもお互いに心に問題を持っている者同士、結局は友情は自然消滅してしまいました。
いや、それは卑怯な言い草で、実際はわたしの鈍感さ故に彼女を深く傷つけていたのでした。

その後のわたしは今に至っても、まったく廃人のようになりました。
彼女と6年間、いろんなところに出かけましたが、今はもう美術館にも公園にも映画にも行きません。多分これからもひとりで何処かに、どうしても必要な「用事」以外の事で。。。つまり昔のように「楽しみのために出かける」ということはもうないでしょう。
もう友達はいないのですから。

それでも「失うことがこんなにもつらいと思える人を持つことは幸運なこと」と、わたしは言えるのかどうか?

上のことばを考えるとき、人は失ってからあじわうのと等量の幸福を、「それ」を持っているときに感じることは出来ないのではないか、などと思ったりします。

◇ ◇ ◇ 

”You can not love anything more than something you miss ”

「誰しもうしなったもの以上に何かを愛することはできない」

アメリカの若手作家、ジョナサン・サフラン・フォアの言葉です。

人はうしなったときにはじめてその価値、それがいかに自分にとってかけがえのないものであったかに気づく、というのは真実・・・少なくともわたしにとってそれは真実だと思います。
もし誰もが「今そのとき」の幸せを心から実感できないとしたら、ひとの幸福は何処に存在するのでしょう。

この二つの言葉を考え合わせるとき、
わたしの「幸福」はどこにあったのかと、決して癒えることのない喪失感と、孤独の闇のただ中で、深く瞼を閉じずにはいられません。
時に、肩より深く頭(こうべ)をたれて。

暗順応


「路地さえあれば建物なんかいらない!」と言ったのは、20世紀初頭から中葉にかけて、主にパリを舞台に活動したハンガリー生まれの写真家ブラッサイでした。

夜のパリの姿を写した彼の作品には、Noir /ノアール、(黒、闇…)そんな言葉が似合っていて、明るい日差しの下でのブラッサイの写真には何か物足りなさを感じてしまいます。

「路地裏」で思い出すもう一枚の写真があります。
アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真で、こちらはニューヨーク。ビルの谷間の狭い路地の片側に若いホームレスらしい男性がしゃがんでいて、もう一方の壁面の底に猫が1匹丸くなっている。おそらくともに宿無しなのかもしれません。
それでもこの、カルティエ=ブレッソンの写真には何故かそれほど心を動かされなかった。

路地裏というと、手負いの逃亡者が身を隠す暗がりという、言ってみればありきたりなイメージがわたしにもあります。
今、路地裏にはカルティエ・ブレッソンやブラッサイのカメラ=目ではなく、「監視カメラ」だけが酷薄に闇を覗いている。。。

「人は誰しも心の中に汚れや闇を抱えている。ひとの心の闇を無視して、街ばかりが、清潔に、明るくなっても、人はますます居場所を失うばかりではないだろうか。。。」と書いたのは誰だったでしょうか。。。

「暗順応」という言葉があります。暗がりの中で次第に目が闇に慣れてくる。

東京に生まれこの街に育ちながら、わたしは今、自分をとりまくまばゆい「光」に順応できずに、人々がたやすく「明順応」している中、呆然自失して立ち尽くしています。

「路地さえあれば建物はいらない!」そんな言葉にひとり深く共鳴してしまうのです。。。
 


Les Deux Voyous, ca 1933, Brassaï (1899 - 1984)

ひみつの宝物・・・



わが家の宝物。母方の祖父がロンドンに行ったときにたまたま居合わせた偉大なる作曲家にサインを求めたもの。
1922年10月4日、サインはジアコモ・プッチーニ。
サヴォイホテルの便箋?でしょうか?オペラ、ラ・ボエームの冒頭の曲「わたしの名はミミ」の譜面が書かれています。

「わたしの名はミミ」 マリア・カラス 




さて、真偽のほどは? 

よい12月を・・・


Woods and Clearing, Winter, 2013–2014, Adam Straus. American, born in 1956
- Oil on Canvas -


みなさま、素敵なそして平和な12月をおむかえください。

いつもこのようなブログにおつきあいくださりありがとうございます・・・

オペラ 「サムソンとデライラ」より、「あなたの声で心は開く」マリア・カラス 


窓から見えるもの




これはフランスの写真家、ルネ・ジャックスの撮った1950年頃のモノクロ写真。
場所は”Ile-de-France”とあるけれど、パリの郊外(?)
この壁のよごれ具合なんか実に味わい深いですね。
住んでいる人間とともに歳月を重ねている、ともに老い、ともに朽ちてゆく。そんな感じがします。
生き物としてのヒトの棲み処、或は巣、そんな印象を強く持ちます。

こういう窓を眺めながら、その内側で生きている人の生活をあれこれ想像して飽きることがありません。

どんな(きっと質素な木製の?)本棚にどんな本が並べられているのだろう?

壁にはどんな絵やポスター(ひょっとしてサヴィニャック?)が飾られれているのだろう?

どんな花が活けられているのだろう?(ワインボトルの一輪挿し?)

どんなレコードが置いてあるのだろう?

この部屋の住人もきっと時折この窓の外を眺めていたのだろう。どんな音楽を聴きながら・・・? モーツァルト?シャルル・トレネ?ピアフ?それともアリア?



かつてアメリカのイラストレーター、エドワード・ゴーリーは、「わたしの大好きな旅は窓から外の世界を眺めることだ」と云いました。
でも窓の下に立って、窓の内側にある小宇宙をあれこれ空想するのも、わたしにとって素敵な旅です。
いや、むしろ今、外の世界は”Too Much Realities”、あまりに味もそっけもない殺風景なもので、
窓の「内側」に思いを巡らす方がいろいろな心地よいイメージを喚起させられるのかもしれません。
もっともそんな風に多くを語り掛けてくる、ストーリィを持った窓にはめったにお目にかかることはありませんけれど。